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はとさんの議論の前提に落とされているもの(追補)

2010/12/27 樹々の緑

 12月26日付で発信してから、「もしかするとこういうことなのかも知れない」 と気づいたことがありますので、手短かに追補します。

 はとさんが、私への「反論その1」でリンクを貼っているURLの第2番目・ 第3番目についてですが、はとさんは、もしかすると、「日本と清国とを当事国 とする条約を正式名称で呼ばないで『日清条約』という場合があるか」というレ ベルで、引証をしたつもりになっているのかも知れないと思いました。

 しかし、はとさんには、もう一度私の12月14日付投稿の、「近代国際法以後、 国家間の条約の中でも『講和条約』だけは、戦争を終結させ多くは領土画定条項 を含む合意規範であるという性格から、特別の地位を与えられてきました。それ を呼ぶ場合に、ヴェルサイユ条約、サンフランシスコ条約など、『講和』という 文言を省略して呼ぶことはありますが、それらは多くが条約が調印されたり講和 会議が開かれたりした土地の名前であって、講和当事国名を冠して呼ぶ場合に 『講和』を省略する慣習はありません。」という部分を熟読していただきたいの です。

 ここで私が指摘しているのは、およそ「日本と清国とを当事国とする条約の略 称」一般についてではありません。「講和条約」という特別の性格を持つ条約に ついて、「当事国名を冠して呼ぶ場合に『講和』を省略する慣習はない」という ことです。略称は普通、講和会議が開かれたり、条約が調印されたりした土地や 場所の名称を冠して、「ヴェルサイユ条約」「サンフランシスコ条約」「下関条 約」という呼び方をする、といっているのです。

 はとさんが上記「反論その1」の第2・第3番目のリンクで指摘しておられる 条約は、「1905年12月22日の満州に関する日清条約」ですが、これは 「講和条約」ではありません。日露戦争後の日露講和条約である「ポーツマス条 約」(これも都市名です)で、日本がロシアからせしめた清国内における権益 を、講和非当事国である清国に無理やり認めさせた(そのことは、都築尚子さん の論考中にも示されています)条約です。

 はとさんは、日清間の講和条約である下関条約と、この「1905年12月 22日の満州に関する日清条約」との違いが、お分りになっているのでしょう か。もし十分に分った上で、なおかつ「反論その1」のような議論をなさってい るのだとしたら、それははとさんの不誠実性を示す証拠に外ならないと考えてい ます。(12月27日記)