12月26日付で発信してから、「もしかするとこういうことなのかも知れない」 と気づいたことがありますので、手短かに追補します。
はとさんが、私への「反論その1」でリンクを貼っているURLの第2番目・ 第3番目についてですが、はとさんは、もしかすると、「日本と清国とを当事国 とする条約を正式名称で呼ばないで『日清条約』という場合があるか」というレ ベルで、引証をしたつもりになっているのかも知れないと思いました。
しかし、はとさんには、もう一度私の12月14日付投稿の、「近代国際法以後、 国家間の条約の中でも『講和条約』だけは、戦争を終結させ多くは領土画定条項 を含む合意規範であるという性格から、特別の地位を与えられてきました。それ を呼ぶ場合に、ヴェルサイユ条約、サンフランシスコ条約など、『講和』という 文言を省略して呼ぶことはありますが、それらは多くが条約が調印されたり講和 会議が開かれたりした土地の名前であって、講和当事国名を冠して呼ぶ場合に 『講和』を省略する慣習はありません。」という部分を熟読していただきたいの です。
ここで私が指摘しているのは、およそ「日本と清国とを当事国とする条約の略 称」一般についてではありません。「講和条約」という特別の性格を持つ条約に ついて、「当事国名を冠して呼ぶ場合に『講和』を省略する慣習はない」という ことです。略称は普通、講和会議が開かれたり、条約が調印されたりした土地や 場所の名称を冠して、「ヴェルサイユ条約」「サンフランシスコ条約」「下関条 約」という呼び方をする、といっているのです。
はとさんが上記「反論その1」の第2・第3番目のリンクで指摘しておられる 条約は、「1905年12月22日の満州に関する日清条約」ですが、これは 「講和条約」ではありません。日露戦争後の日露講和条約である「ポーツマス条 約」(これも都市名です)で、日本がロシアからせしめた清国内における権益 を、講和非当事国である清国に無理やり認めさせた(そのことは、都築尚子さん の論考中にも示されています)条約です。
はとさんは、日清間の講和条約である下関条約と、この「1905年12月 22日の満州に関する日清条約」との違いが、お分りになっているのでしょう か。もし十分に分った上で、なおかつ「反論その1」のような議論をなさってい るのだとしたら、それははとさんの不誠実性を示す証拠に外ならないと考えてい ます。(12月27日記)