○日本共産党が共産党であり続けることはこれからも可能なのだろうか?
今この党には内外から党名の変更を求める声が強まっている。そしてこの党は
「科学的」と称する(※注1)社会主義を掲げつつ、内実においては中央委員会
の決定が全てに優先される組織であり、そして実際には「国民」に尻尾を振って
投票を呼びかけることを(階級)「闘い」としている。
共産党の闘いだけではなく存在そのものが困難な状況であることは1989年の東
欧の変革とその後のソ連邦の解体以降自明である。本質的には地球上ではじめて
の「労働者国家」が誕生したとされる1917年以前から共産主義と共産党は困難と
矛盾に直面していたのだが。
共産主義思想が闘争対象ならびに変革対象としているところの資本主義は今も
現実に存在している。そしてマルクスが解明したように労働者階級からの搾取と
剰余価値、それらが富の源泉であり、その最大化を目指して資本も現実に運動し
ている。このような事実を現実のものとして認識出来ること、この認識を可能と
しているものこそ、歴史的な階級闘争と共産主義主義者の粘り強い闘いの成果で
ある。
しかしながら一方において「社会主義国家」の悲惨で冷酷な現実というものも
私たちは知っている。今や私たちに一番近い社会主義国家は親から子に権力が受
け継がれる一方、国民の多くが飢えと秘密警察に恐怖している。一番遠い社会主
義国家においても飢えは身近に迫っていたと聞く。共産主義社会や社会主義社会
という青写真、理想が現実に何をもたらしたのかはそれによって利益を受けると
されていた人々が一番良く知っている。その国の共産主義者とその指導部以上
に。
以上の、少なくとも歴史的に合意が取れる二つの事実を踏まえるならば、現実
に共産党が共産党であり続けることを可能とするには、以下の内容を満たす必要
があると考える。
①資本主義社会の本質を踏まえること。
②社会主義社会や共産主義社会という理想のために運動するのではなく、現実の
労働者階級の利益を見抜き、それを擁護・発展させること。
以上の2つの内容はおおよそ社会民主党においても認められる内容ではある。
しかし社会民主党は「国民」や「国家」を土台に考えるために①>②となってしま
う傾向を強く持っている。我々は労働者階級全体の利益(それは地球規模である
必要がある)を資本主義全体の動向のなかで提起する必要があり、それは国家や
国民ではなく、それを超えた階級、労働者階級にあると考える点において一致し
ないと考える。
日本共産党は歴史的な審判への試練に自らを晒そうとはしない。そしてそれは
自己変革を拒否する保守的な態度であり行為である。歴史はそのような集団を残
しはしないだろう。そしてこのことは全ての共産主義集団・個人に適用出来る事
柄であると考える。共産主義思想を変革、もしくは再生させることは、まさに
「自由」である。今、私たちはそのような時代に生きている。しかしその「自
由」とは、共産主義思想は自由に選択出来る思想の一つである、ということをも
同時に意味する。つまりそれは何よりも個人の選択の問題となってしまったので
ある。そしてそうであるがゆえに、共産主義思想が個人の選択に適合的に合うよ
うな形態と内容を兼ね備えることが求められているのである。それは流行や相対
的な価値のためにあるのではなく、人間が、一人の人間としての拘りとしてある
何かである、と個人的には考える。
日本共産党に求め、期待することはそれゆえ以下の内容になる。
①資本主義の現実をしっかり踏まえ、労働者階級の利益を追求・提示せよ。
②共産主義思想についてはその否定面を素直に認め、その刷新を個人が自由に行
える環境を作り出せ。
以上の事柄が行えた時、日本共産党は労働者階級と共産主義者に奉仕する政党
として刷新するであろう。それはもちろん本当に大変で努力が必要で、そしてそ
の割には見返りがない事業である。それは永遠の奉仕のような事業である。しか
し私はそれは必要な事業であると考える。資本主義社会の論理だけが人々を支配
し社会を包摂してしまう中で、人間と人間同士のより素朴で温かい関係性を希求
する欲求が徐々に形成されていると考える(それはある意味で資本主義の成果で
ある)。人間の共同と集団性が個人に積極的な影響を与えることが個人化の果て
に今後ますます見直されると考える。そのような中において人間を全面的に見つ
める思想として共産主義はますます必要とされると考えるのである。
共産主義は21世紀において、それ自身は利益をもたらすことがない思想になる
と考える。しかし共産主義は何が利益で何が不利益かを判断する際のモノの見方
を私たちに提供してくれると考える。それはかけがえのない思想であると考え
る。
日本共産党が共産党であり続けるために、一日も早くこの記事の提案を検討さ
れることを尊大ではあるが願う次第である。
※注1 しかし科学という一見厳密性を要求されるようにイメージする対象に 「的」とつけること自体実際問題少々怪しいと感じてしまうの私だけではあるま い。