一年に三万人の人が自殺するというのは、この国がよくない国だからに決まっている。重い病気にかかって死期を自分で決めた人もいるとは思うが、ひとにぎりだ。大半は、生きやすい世の中だったら、死ななかった人だ。未来に希望があれば生き続けた人だ。
国家については、いろいろな考えがあるが、国家は民の生活を守るためにある、という考えもある。中国の王道であり、西欧の社会契約説である。共産主義もそうであった。日本の天皇制にまつわる神話、「民の竃は・・・」だって、それを表している。岡野弘彦氏は、そういう観点から、古代以来の天皇制の非政治的側面、天皇の行事、行幸、歌詠みなどの中に、そういう民のためにという面を見いだす。
だが、明治以降に成立した「日本国家」なる共同体の一体性の幻想性が露呈している。持てる者、政治や社会のプロセスに参与している者と、そこから排除されている者に分かれつつある。いや、すでに分かれている。ルソーはそれを、「社会契約論」の中に、途上で発生する最悪の否定されるべき社会として描いた。
テレビは長らく、その分裂をおおいかくす、あるいは緩和するシステムとして存在していたが、地デシ移行をきっかけに、その役割が解体し、メディアの流れもまた、ばらばらになりはじめている。
この国がどうなるべきかはまだ具体的に見えない。
だが、豊かになった生産力を制御でき、福島におこった原発事故に立ち向かう力を持った政府をもつ、「お金がなくとも、あるなしにかかわらず」人々が人として生きて行ける社会でなければならないことだけは、はっきりしている。