日本は豊かな国である。
金持ちたちが、好きに無駄遣いがてきているからではない。
二ートや、失業がすぐに死に直結しないですむ社会だからである。すぐに、すべての失業者が海外に出稼ぎに行かなくても、なんとか生きて行けているからである。広告配りやティッシュペーバー配りのような、どうでもいい仕事があって、それをして生きている人々がいるからである。仕事のないところにわざわざ仕事を作り出す、空き缶をゴミ捨て場から拾って売ることで生計をたてているような人が生きていけている社会だからである。
資本主義の社会では、豊かな富は、資本家たちに搾取され、さらにそれは投資にまわって、諸民には賃労働者の再生産以上の還元はないものである。
だが、かつて資本主義は、社会主義運動によってかなりのところまで、追いつめられたことがあり、資本家たちは、自分たちの立場を守るためには、諸民への懐柔政策が必要であることを学んだ。
国家による福祉政策、中間層、大企業正規雇用労働者に対して、支払いの維持(時間給の者からの徹底した搾取と対照的)を行い、ニートの子供たちを大人になっても抱えつづけることを可能にすること、東京に大量の資本主義の防波堤としての保守的人口を集めるため、さまざまのユキカキ仕事、ゴミ屑仕事、つまり、なくてもいい、生活費を彼らに配るためだけの意義しかない仕事を作り出した。メディアはもともと懐柔策の道具であったが、コンテンツという名の、ゴミ屑仕事を提供する場ともなった。
他に、賃労働者たちの戦いと、相互幇助によって、生きていけている人々もいる。
回路はさまざまである。だが、とにかく、結果として、搾取にもかかわらず、労働しなくても生きて行けている人の数は増大している。
かつて、1980年代のソ連社会主義にも、モスクワなどに、働いていない若者たちの文化があった。それも革命後、六十年たったロシアで生産力の増大を示すものだった。改革、ペレストロイカは、そうした生産力の発展を背景に発動され、より高次の社会システムに移行しようという動きだった。それは稔らなかったけれど。
日本は豊かな国である。
より少ない労働時間で、あるいは労働をしなくとも、そこに生きる人々が生きていくに十分な生産力をすでに備えた社会である。
自信をもつべきである。
本質的に必要なことは、社会の根本ルールを
「働かざるもの、食うべからず」から
「働こうと働くまいと、生きている者には生きる権利がある」
に変更することである。