初めに、象徴的な事例を示しておきます。 1921年、つまり、日本共産党創立の前年のことです。
1921年 2、3月 クロンシュタットソヴィエト水兵の反乱勃発
これは、10月「革命」の中心的役割を果たしたと言われていた赤軍中心部隊の反乱でした。
レーニンはこれをトハチェフスキー将軍(後の元帥)部隊を派遣して鎮圧します。
ほとんど皆殺しの状態だったということです。
1921年4~6月 タンボフ県の反乱農民一揆の鎮圧と敗残農民への毒ガス攻撃
6月11日 レーニン率いる政治局は以下の命令を承認し、発令した。(全露ソヴィエト中央執行委員会発令)
1、自分の名前を言うのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。
2、人質を取った場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。
3、武器を隠し持っていることが発見された時は、一家の最年長の働き手を裁判なしでその場で射殺すること。
4、ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県に追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしで射殺すること。(夫や父や息子がゲリラ・農民一揆に加わっていたのを敗残後、家族がかくまっていた場合でしょう。) 5、ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(これは、おそらく、ゲリラ・農民一揆に参加した夫や父や息子を持った家族が食べる物もなく他県!に追放されて、仕方なく、親族・知人を頼ったという場合のことでしょう。)
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7、以上の命令は厳重に容赦なく実行されること。
ヴォルコゴーノフ著「レーニンの秘密 下」p158より
農民一揆はこのままでは飢え死にするしかない所まで追い詰められた農民たちがやむにやまれず起こしたものです。 それほど、赤軍の食料徴発は厳しいものでした。
さて結局、タンボフの農民一揆は敗北します。
敗北後には農民一揆参加者たちの一部は森に逃げ込みました。中には家族ごと逃げ込んだ農民もいたと思われます。
赤軍のトハチェフスキー将軍は以下のように掃討していきました。
「レーニンの秘密 下」 p135
1921年 6月12日 トハチェフスキーは次のような命令を出した。 1、盗賊(敗残農民たちのこと)が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。
窒息ガスを森中全体にたちこめさせ、そこに隠れている者を確実に絶滅させるように綿密に計画を立てること。
2、小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取扱いに必要な専門技術者をただちに現地に派遣すること。
体制から見て、どういう種類の農民が”本物の階級の敵”と看做されたかは想像しにくい。
だが、似たような措置は他の所でも取られ、政治局はそれを承知し認めていた。
つまり、毒ガスはタンボフ以外でもあちこちで使用された、ということであり、その対象は帝国主義戦争における(例、第一次大戦)敵国正規軍ではなく、”敗残農民たち”であり、毒ガスの性質上、一家の最年長の働き手を「選別して殺す」のではなく、その家族、つまり女性、子供の別なく「絶滅」させるものだった、ということです。
特に身体上の問題から、乳幼児や高齢者からバタバタと死んでいったと思われます。
そうした乳幼児や高齢者は(女性も)明らかに無実な人たちです。
もちろん、重武装した敵国正規軍でもありません。
敗残農民とその家族たちです。(女性、乳幼児、高齢者も含まれていた)
そうした凄惨なロシア革命の実相がある中、その翌年、1922年にレーニン率いるコミンテルンの日本支部として、日本共産党は誕生しました。