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一般投稿欄

「風評」の政治学

2011/10/8 櫻井 智志

 小澤一郎氏が裁判に立たされた。尿道結石と発表のあった激痛のために、病院にしばらく入院せざるを得なくなった。長時間の裁判関与によるそうとうなストレスが長い期間続いていたこともつたえられている。過去に狭心症など健康に重要な問題をもつ小澤氏が、不当な状況で心労を抱え続けることの非合理を指摘したい。
 東京地検でさえ、二度も立件起訴猶予せざるを得なかったのに、匿名の市民複数による告発により、裁判所に立たざるを得なくなった。
 小澤氏のことを、金権政治家と呼んで、四億円のカネの出所をあきらかにせよ、という種類の世論が広く世間を覆っている。

 私は以下のことを考えている。

 小澤氏が有罪か無罪かが裁判所であきらかになるのは、裁判所の判決によるだろう。しかし、もし小澤氏が有罪にされれば、それ見たことか、という報道と世論が広がっていくだろうが、かりに無罪の判決がすべての裁判所で下されたときのことを考えてみよう。それで小澤一郎氏は無罪の安心を獲得できるだろうか?

 否、である。
 実は、小澤氏が無罪か有罪かは裁判所の判決によって決定するが、判決が下る前から、小澤氏は「ダーティな政治家」というイメージと風評によって、著しく心身のダメージと政界での権威失墜をこうむってしまう。もうすでに、東京地検特捜部が小澤氏を立件しようとした時から、その「風評の政治学」は開始されていたのである。

 近代社会では、「疑わしきは本人の権利を考慮して罰せず」と法的対応がとられてきた。しかし、日本では、そのような近代人権思想とは異質な一種独特の異様な「論理」がまかり通ってきた。
 たとえば、カリフォルニア市警察によって強引に逮捕され米国に連行され、死亡するという驚くべき結末に至った故・三浦和義氏は、週刊誌を中心とするマスコミの異様な騒動によって夫人の殺人容疑で連日スポーツ紙や週刊誌、テレビワイドショーなどで巨大化されたマスコミ・イメージで、逮捕され留置された。国内での判決では、無罪が確定し、あのマスコミの騒動は一体どんな補償がなされたのかと怪訝に思うような結果となった。
 三浦氏は、銃社会米国警察の判断ではなく、日本国司法機関は無罪の判決を決定されている。しかし、国内には一私人である三浦氏の人権は無視され、徹底的に貶められていった。裁判途中にもかかわらず、あいつぐ報道機関が人権蹂躙で起訴され有罪の判決を受けている。
 この悲惨な事件が象徴するように、日本社会は、「うわさ」「風聞」「スキャンダル」が、犯罪の事実か否かよりも重要な影響力をもっている。社会は、事なかれに終始し、「なにもなく」「大過なく」「無事に」終えることが最大の価値と見なされる。

 話をもどそう。
 小澤一郎氏は、有罪か無罪かということよりも、大量の宣伝メディアによってスキャンダラスな政治家の風評に晒され続けた。自民党長期政権の悪政を打破して、自公の政権交代を果たした画期的な政治事件の立役者であり功労者であった小澤氏が、「金権腐敗」のイメージに置き換えられ、徐々にしかも大々的にイメージダウンを計り続ける「風評の政治学」攻撃は、ついに日本国内に浸透して、新聞やテレビなどの報道メディアは、小澤氏がどのような犯罪をおかしたというのかということよりも、これだけテレビや新聞、週刊誌などのイメージ・メッセージが流されるのだから、「なにもないはずがない」という意識を国民の深層心理に刷り込み続けた。

 なかには、小澤氏をめぐる人権蹂躙行為を批判する人々を、「クリーンな政治」「カネにまみれた汚職政治家追放」のかけ声から、かつて左翼を支持していたひとたちが民主党を支持して金権政治に目をつむっているという論調で攻撃する左翼人さえ出ている。

 もし、政治家が事実の的確な分析と広い視野にたつ判断によって批判されるのではなく、あっというまに広まった「風評」の政治的力動態から非難され、政界から追放されていったならば、週刊金曜日の論客である佐高信氏が長年主張してきたように、次々に「ダーティ」なレッテルを貼られて、「クリーンなタカ派」から攻撃され放逐されていくことだろう。
 それに関連するような事件は、実はもうあちこちで見られはじめている。その最初は、私見によれば、宮本身分帳事件における日本共産党宮本顕冶委員長への謀略事件あたりと思う。躍進する社共の革新統一戦線による自治体がメガロポリス化して、国政での政権がささやかれはじめた頃の事件だった。
 最近では、脱原発を方針とする鉢呂大臣の福島視察後の発言問題による辞任事件があげられる。この問題は簡単に鉢呂氏の非常識な暴言とみなされている。けれど、福島視察後の鉢呂氏と記者クラブとのやりとり、記者会の異様な経緯が背景にある。すでに多くの識者によっても事実関係が紹介され、鉢呂氏の失脚が、単純な見かけだけのことではないところまで指摘されている。

 政治家だけではない。村木厚労省幹部の冤罪事件なども記憶に新しい。小澤一郎氏の「金権政治家」という決めつけが事実かどうかを判断することと、風評によって空気のように根拠も裏付けもなくどんどん拡大されていくイメージによって世論の操作をあやつる動きは、いわば戦時下の大勢翼賛状況を形成した「空気」と同じ次元にある。

 日本国内では、「風評の政治学」現象がまかり通っても、国際世論では、奇っ怪なファシズム的心理現象は、まともに肯定されるとは思えない。中南米や中東、アフリカではあいついで民衆民主化革命がおこっている時代に、日本の後進的「風評スキャンダル」社会の異常は、国際社会の前進にももとるものと小生は考える。