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生きるべきか、死ぬべきか

2011/10/8 はと 70代

 福島第一原発の事故は広島に落とされた原爆の250倍の放射能を出していたのだから日本は三回もの原爆を落とされたのと同じである。その規模の大きさはチエルノブイリをはるかに超している。
 250発の原爆であるならば放射能が東京まで広がって当たり前なのだ。文部省の調査では低い値の数値が出ていないが国際的な安全基準で調べるならばおそらくもっと広範囲になるだろう。関東から東北地方にかけて何処が安全という地帯はない。魚も海草も草も木も、野菜も、米も食べられない。しかも水源地まで汚染されているので水道の水まで飲めない。私はそう考える。
 広島、長崎に対する原爆投下によって日本は決定的に敗北したのであったが、3発目の原爆は経済大国を再び敗北させたのである。この世界大恐慌の中で日本経済は二度と立ち上がれないだろう。それほどに日本の工業の動力は核に依存してきた為である。だから必死で原発を残そうと産業資本と国家はあがいている。原発を直ちに停止させ、廃棄させるという主張は日本人が生きるために絶対に譲れないが、日本の巨大独占資本は利潤のためになんとしてもそれを拒否するであろう。それは日本人民対独占資本と独占資本を守ろうとする国家との対決を通じる以外にない。
 あの1960年の安保闘争の規模の戦い以外に原発をなくすことは出来ない。9月の東京での6万人集会はその萌芽を含んでいる。原発を推進するか、廃棄するかは生きるか、私たちの死ぬかの問題である。
 ”to be.or not to be.that is the question.」("生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。...ハムレット)
 原発事故の惨害はさらに広がり、深刻さを事実を追うほどに増してくる。私たちは自分の生活、健康、生死のみでなく、子供たち、子孫のために、なんとしても日本から、世界から核を廃絶するために尽力しなければならない。
 戦う相手は明確である。電力独占資本とすべての独占資本、それを守る国家である。