また実例を示します。
ロシア正教会への弾圧事件です。 (レーニンの秘密p206~207)
チーホン総主教の呼びかけ(飢餓への救済)
「、、、人肉食いまで生じている。1300万人の飢えた者のうち、わずか200万人しか援助を受けていない。あなた方の両腕を広げ、飢えている兄弟姉妹を救おうではないか。信者たちの同意を得たので、飢えた人たちを救済するために教会内部の財宝(聖像を縁取るネックレス、ブレスレット、指輪、金、銀の側板など)を使っていただこう。」
政治局は、1921年7月7日にチーホン総主教の申し出を討議し、彼の呼びかけをラジオで放送することに意見が一致した。
(当時、ラジオは希少な存在で、マスコミならぬ、ミニコミだったと思われる)
トロッキーはチーホンの呼びかけをボリシェビキの新聞にも載せたがった。
(つまり、ラジオよりもはるかにより大きなマスコミであった新聞で広く人民に知らせたがった)
だが、レーニンは先を読んで、教会の富を没収し、彼らの勢力を弱めるためにこの危機を利用する方法を模索していた。(大飢饉を教会攻撃の千載一遇のチャンスと捉えた)
8月になって、、全ロシア・教会委員会が飢餓救済のために結成され、司祭たちは、”聖体礼儀に必要のない”教会の財宝を手放すように要請された。
飢餓救済のための一般人の委員会も自由主義者(ブルジョアと看做されていた)を中心に結成された。、、、、この委員会は”ブロクキシュ”(中心人物らの名前から)とあだ名され、これに関連したファイルには”クキッシュ(人を愚弄する指型のこと)という軽蔑を表す言葉が見出しにつけられた。
(ところが、、、、)
1921年8月27日、レーニンはブロコビッチ(ブロコキシュの指導者)をはじめ、救済委員会の他の非共産主義者メンバーを直ちに逮捕するように命じた。
ボリシェビキは(つまりレーニンらは)飢餓への救済が教会や西側の慈善団体から来ると思うと落ち着かず、ブルジョアたち(自由主義者が中心だった)そのような援助を黙認してはいられなかった。
(つまり、非ボリシェビキが社会の救済者になってはいけないのだ、という極端なセクト主義)
不完全なデータではあるが、それによれば、1921年~22年にロシアでは2500万人が飢ていたという。(500万人が餓死したと言われている)
・・・・
他方、飢饉はぞっとするほどひどくなった。 人々は腐肉どころか、死体までも食べた。政治局は人肉食いのことを新聞に書くことを禁止した。
(さて、”先”を読んで、トロッキーの、チーホン総主教の申し出をボリシェビキの新聞に載せて広く人民に、教会側の慈善の救済への意志を知らせる、という提案を拒否し、ラジオ放送という極めて希少なミニコミによる放送にとどめていたレーニンは)
1922年2月23日、国民は新聞で、ロシアの教会から金銭的価値のあるものは全て、強制的に没収するという政府命令が出されたことを知った。
この命令は、最初レーニンが単独で(!!!)承認して、政治局があとから追認したことは書かれていなかった。(スターリンでさえも追認したに過ぎない!!)
(p207の少し前に戻って引用)
(こうして強制的に没収された教会などの財宝を、、、)その間に、党指導部は膨大な額にのぼる資金と、大量の金や財宝を、世界革命に点火するために外国の共産党へ送っていた。(自国の飢餓救済のための資金だったハズなのに!!また、日本共産党もこうして1922年に結成された。その活動資金はもちろん、レーニン指導下のコミンテルンから出ていた。)
1922年には1900万金ルーブリ相当の教会のものと思われる財宝が、同じように外国共産党に引き渡された。(その間にも500万人にも及ぶと言われる餓死者を出しているのに!!)
以上、p206~207からの引用。
こうした情勢の中、1922年7月に日本共産党は結成されました。
( )内は私のコメントです。