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一般投稿欄

エガリテさん、赤いたぬきさんへ

2011/12/17 丸 楠夫

 エガリテさん、赤いたぬきさんそれぞれの投稿に対してごとに書き分けてはありますが、全体を通して一連・一体のものとして読んでいただければ幸いです。

エガリテさんの提起についてを中心に

 大阪ダブル選挙について、より現地の情勢に通じた視点からの報告・分析、大変興味深く拝見させていただきました。また、関連する情報・資料、ご教授いただき感謝しています。また、日本共産党が、「国民の生活が急速に破壊されていく中で、国民の生活と権利を守る戦いを正面から取り組まない限り、ますます国民から遊離する。」というご指摘も、大いに共感するものです。昨今の政治情勢を考えるにつけ、より生活の場に立脚した闘い、労働運動をはじめとする各種社会運動の重要性を痛感するところです。
 さて、そのような観点に立って、エガリテさんの指摘する、大阪における共産党・「明るい会」の得票の推移を見ていくと、70年代までの社会運動の高揚とその後の停滞・後退の影響ということについて、考えないわけにはいかないように思います。かつて革新陣営が選挙において一定の前進・成功を収め得たのも(そして今後、革新・左翼陣営の選挙における前進を可能ならしめるのも)、社会運動の高揚があればこそではないか――というのが私の仮説です。このような発想から、エガリテさんがその重要性を指摘される「宣伝し・扇動し・組織する」の、とりわけ「組織する」について考えれば、それは選挙で投票する、といったことにとどまらない、人々が自らの時間と労力を割いて、時には身銭を切って自ら運動に参加する、闘いに取り組む、そういったあり方を「組織する」のでなくてはならないのだと思います。そう考えていくと、橋下・維新の会の圧勝が果たして(そのような意味での)組織化の成功例といえるのか?むしろそのような組織化(自ら闘い取ろうとする運動、自ら参加する運動)の崩壊・解体の下で、上からの”リーダーシップ”による他力本願的変革にすがる・すがらざるを得ない、という状況の表れではないのか?それに対抗するには下からの、自ら闘い取ろうとする運動、自ら参加する闘いの再構築をするよりほか無いのではないか、と、考えられるように私は思うのです。
 エガリテさんは大阪ダブル選挙の敗因として、共産党、とりわけその大阪府委員会が早くから「反独裁」「反ファシズム」の立場を明確にしなかったこと、選挙最終盤までその立場を徹底できなかったこと、を、反橋下陣営の敗因として強調されています。一方で、「今回の選挙では一般のマスコミも「独裁」か「民主主義」かの戦いと位置づけていた・・・」こと、志位の大阪演説以前からすでに「毎日新聞など多くのメディアは独裁か民主主義かの戦いと報じていた。また平松候補もこの主張をすでに前面に出していた。」こと、平松票・反橋下票の「52万票」は自民党や民主党の票が多くを占めている・・・」ことについて報告・分析されています。それらも踏まえるなら、平松・反橋下陣営全体で見れば傍流、少数派である共産党(大阪府委員会)の反独裁・反ファシズムの訴えの遅れ、不徹底が市長選の勝敗にどの程度影響したのか、ということも含めて、メディアや平松自身が「独裁か民主主義かの戦い」という争点設定をしていながらなお負けたという点、そこから、少なくとも市長選の勝敗ということで言えば、「独裁か民主主義かの戦い」という争点設定の妥当性についてはなお検討の余地があるようにも思われます。

赤いたぬきさんの提起についてを中心に

 先日の私の投稿に対して、ご意見、問題提起いただきありがとうございます。赤いたぬきさんの投稿を踏まえた上で、今一度、私の考えを述べておこうと思います。
 選挙期間中の戸別訪問禁止規定は1925年の男子普通選挙権成立と抱き合わせで持ち込まれたものだそうです。普通選挙の下、本格的な活動が予想される無産政党(候補者)にとって、もっとも有効であろう、いわゆるドブ板選挙戦術(既存秩序からの個人・一票単位での直接的切り崩し)をあらかじめ封じる狙いがあったそうです。
 さて、戦後革新陣営において、候補者個人の活動スタイルとは別に、共産党における機関紙読者網や、総評系労働組合主流の社会党支持(を現場で担った職場活動家層と一般組合員)等に代表されるような対面的な人間のつながりが、選挙の集票で重要な役割を果たしたことも、否定できないかと思います。それらの対面的な人間のつながりの前提となっていた社会運動の高揚、人々が自らの時間と労力を割いて、時には身銭を切って自ら運動に参加する、闘いに取り組む、そういったあり方の停滞、後退、縮小が、革新陣営の、(赤いたぬきさんの言われるような)「ポピュリズム」的支持に選挙において期待・依存する傾向、に拍車をかけたのではないか、とも考えられると思います。そして、社会運動、下からの、自ら闘い取ろうとする運動、自ら参加する闘いが解体していったからこそ、人々が上からの”リーダーシップ”による他力本願的・恩寵的変革に期待する・期待せざるを得ない、という状況が生じ、小泉や橋下を支持する形の――赤いたぬきさんの言う「本当のポピュリズム」へとつながっているのではないかと私は考えています。
 このような前提で考えた場合、橋下・維新の会に投票しようとする(今後のことで言えば投票した)多くの人たちに、「その選択が間違っていた」、「今からでも遅くないから橋下に反対し、橋下を打倒し、よりましな市長を誕生させよう」という方向へ転換してもらう・転換させる上で、橋下・維新を(あるいはそれへの――選挙では投票する、といった程度の――支持者をも含めて)、「独裁」「ファシスト」と呼ぶ・「独裁」「ファシスト」であると「証明」することに、戦術上の効果がある・あったのか?(少なくともそれだけでは)効果は薄い・薄かったのではないか、というのが私の仮説です。
 上からの”リーダーシップ”による他力本願的・恩寵的変革に期待する・期待せざるを得ない、という状況から橋下・維新を支持する人にとっては、「独裁」性はデメリットと見なされない(もっとも、この場合の「独裁」は、自分たちの代わりに橋下・維新が多少強引にでも全部何とかしてくれる、ぐらいの感覚であろうとは思います)、むしろ「独裁」(強い”リーダーシップ”!)だからこそいいんだ、ぐらいの認識をしている可能性さえあるのではないか?だとすると、そのような人たちにはじめから反独裁・反ファシズムを訴えても効果は限定的であり、まずは橋下・維新の政策あるいはその「独裁」性、「ファシスト」性が我々に具体的にどのような弊害をもたらすのか、から説いていき、橋下・維新の政策ないし「独裁」性、「ファシスト」性の弊害の認識の共有が出来て初めて、ようやくそこに立脚して「今からでも遅くないから橋下に反対し、橋下を打倒し、よりましな市長を誕生させよう」という方向への転換をもたらし得る、あるいは反独裁・反ファシズムの訴えが訴求力を持ち得るのではないか?というのが現時点での私の考えです。
 これは私の個人的な感想にすぎませんが、(私がたまたま見た限りでの)橋下と平松の討論で、平松は橋下のキャラクター(あるいは政治家としての資質)や手法への批判に比重を置いていた印象を受けました。仮に今回の大阪ダブル選挙における反独裁・反ファシズムの訴え全般が、実践上、橋下・維新のキャラクター・資質や手法への批判・否定にとどまっていたのであれば、今後の運動を考える上でも、再考の余地があるように思われます。

最後に

 今回も、橋下・維新がファシストなのか否か、ということについては私はあまり踏み込みませんんでした。今の時点では、漠然とですが、橋下・維新はファシズムというよりも(より幅を持たせた規定である)ボナパルティズムの方が近いのではないのかな、と私としては思っています。また、エガリテさんの、「「維新の会」を「古い自民党の装いを変えた地域政党」というような位置づけをしていたら」いけない、という指摘には私も同感なのですが、それは維新の会がファシストだから、というよりも、維新の会は日本全体を覆う帝国主義化と新自由主義化の一つの現れであり、そして日本の帝国主義化と新自由主義化は「古い自民党」といった言葉で規定しきれるものではない、という考えからのものです。
 これらの点に関して、カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」、さざ波通信第4号「新ガイドライン法の成立と従属帝国主義(上)」、同第5号「新ガイドライン法の成立と従属帝国主義(下)」なども参照していただければ幸いです。