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①丸 楠夫さんへ(大阪W選挙について) ②植田さんへ(民主集中制について)

2011/12/31 赤いたぬき

はじめに
今回、大阪W選挙の結果について返信頂いていた丸さんへの返信と、だいぶ過去になりますが、2010年9月18日付けの植田さんの主張への返信を行いたいと思います。植田さんにおかれましては、返信がこのように遅れてしまったことをここに深くお詫びします。申し訳ございませんでした。

①丸 楠夫さんへ(大阪W選挙について)
丸楠夫さん。先日は返信ありがとうございます。丸さんのご指摘もなるほどと思い、自分でも少しばかり学習してみました。といっても、インターネットを使用しての学習ですので、底が浅いとは思うのですが。いずれにせよ、この間学習してきた内容を交えて、丸さんへの返信をしたいと思います。

・そもそもファシズムってなに?
 橋下支持者を「ファシスト」規定しておきながら、今更ですが、ファシズムについてwikipediaで調べてみました(注1)。そこで気が付いたのですが、ファシズムは、基本的に議会を解散させ、間接民主主義を否定する傾向があります。全ての権力を議会から個人に集中させ、イタリアであれドイツであれ、民主主義そのものを否定します。対して橋下は民主主義を根本的に否定する言質もなければそのような傾向もありません。たしかにこれではファシズム、独裁者という定義からは外れているかもしれません。その上で橋下支持者は「ファシスト」なのかどうかですが、これもやはり言い過ぎであったと考えております。少なくとも支持者の人々が議会制民主主義を全面否定し、全ての権限を橋下氏に集中するべきであると考えているわけではないからです。恐らく問題は、丸さんの指摘の通り、敵を作り出す方法や管理強化にのみあるのではないということです。これについては後述していきたいと思います。

・今回の本当の争点は何であったのか?
 自分自身、当初は「独裁」「教育への介入」「生活保護世帯の切捨て」「労働組合への敵対」を問題視していました。しかし、本当にそうなのだろうか?と点検するために、全労連系の研究所と連合系の研究所の主張を検討し、そもそも何が論点になっているのかを考えてみました。
 全労連系の大阪自治体問題研究所(注2)では、主に以前の自分自身の主張と同じ内容が掲載され、「憲法に基づく市政」を対案にしているように思えました。次いで連合系の大阪市政調査会では橋下氏の主張に対する詳細な反論が載せられていました。それは、そもそも橋下氏の主張で大阪は良くなるのか?といったものでした。自分が特に「なるほど!」と納得したのは、橋下氏の主張を実現すると、①財政が良くなるかどうかは分からない。②住民サービスの低下が強く懸念される。③住民の自治体への参加経路が狭まる。と具体的に主張していることです。特に自分は③の主張は大切であると思いました。
 地方自治は、戦後憲法と双子の関係にあると以前国立市議の重松氏から聞かされたことがあります(注4)。そして地方自治の原則は住民自治です。自治体はまさに自治会や労働組合の地域版なのでした。自分自身学生時代に自治団体の運営に関わっていたので理解出来るのですが、この自治の原則は当事者が自分が主役であることを自覚しなければ始まりません。そして、恐らく今の日本の自治体では、住民が主人公の自治運営はまだまだ不十分なのではないでしょうか?まして、十分にそれらの運営に参加する機会も経験もないなら尚更です。ひたすらサービス提供機関とみなすか、厄介な障害物とみなすかでしょう。
 橋下氏は、その派手な発言と行動力で政治を変えるかのような印象を視聴者に見せました。それはつまり「俺について来い」というもので、自治体の本来的な自治とは真っ向から対立するものです。しかし、それは今の日本の地方自治の実体と対称的な関係にあると思います。つまり、地方自治の空洞化を突いているのです。まるで担い手がいなくなった学生自治会や労働組合が上昇志向の塊の個人主義者に引っ掛けまわされる姿のようです。茶番なような話ですが、それが実態なのではないでしょうか?そして、これに関しては、政治の空洞化をメディアが埋めている日本社会の政治状況の現実があるのだと思います。

 今回の選挙の争点は、したがって、住民自治をメディアとそれを背景にした個人に委ねるか、それとも一人一人の住民が奪い返すのか、そこにあったのだと思います。そしてそれは選挙する前に本質的に勝負がついていたのだと思います。

・今回の選挙の教訓と総括
 今回の選挙では、私も選挙の本質である「住民自治の危機」を見ることが出来ませんでした。それは「反独裁」とは似て非なるものであると思います。一人一人の住民に自治を奪還すること、それに関して既成の政党があまりにも無頓着であったことが、今回の現象を産み出したのだと思います。そして地方自治の原則に対して、主体である市民もまた、それを十分に自覚出来なかったのではないでしょうか?「大阪市は大阪市民のものである」という内実を、どれだけ形成出来たのか、革新陣営にも同じ課題が突きつけられていたと思います(注5)。

注1 wikipedia
注2 大阪自治体問題研究所
注3 大阪市政調査会
注4 東京大学現代社会研究会WEB
注5 個人的に党派政治の一つの課題として、党派にとっての手段が時として党派外の当事者には目的となる場合がある場合に、党派はそれをどう適切に処理することが出来るのかという問題があります。例えば日本共産党は国政で勝利することを目的としていますが、地方自治体は地方自治を円滑に運営することがその第一の目的です。そのへんについての対応をどう十全に行うかについての討論・問題意識の不在は、恐らく大衆運動全般について言えることでしょうが、ないと思います。本来、厳密な意味での党派性とは、党の主張と客観的な条件の間を巡るものであると思いますが、セクト主義は党派性を自らなくしてしまう大きな弊害を持っているのです。それは嫌というほど繰り返されてきた「左翼」の悪しき伝統かもしれません。

②植田さんへ(民主集中制について)
返信大変遅れてすいません。自分なりに民主集中制がもはや弊害でしかないことを納得するのにかなりの時間を費やしてしまいました。批判と権力奪取のみを目的化する運動ではなく、強力な自治を形成する運動をも含めた(それ自体を目的化することは間違いだとしても)運動を形成することが、内実共に民主主義運動であるという観点が、欠如していたためであると思います。「民主」を形式的にのみ歪曲し、「民主」を一つの手段、技術としていたことの現れであると思います。民主集中制の問題は、党の党派性を弱めるところにあると思います。実はこの主張は、大阪市長選挙への自分なりの総括の中で気付いた点でした。地方自治における住民自治をどのように位置づけるのかという問題でした。そこで私
自身がなぜ民主集中制に拘っていたのかを明らかにし、民主集中制の問題性と民主主義の現状の問題点を再検証したいと思います。
私自身が民主集中制に拘泥するのは、まず共産主義運動の効率性と能率の観点からでした。いちいち民主主義を尊重していたら収拾がつかなくなるという観点からでした。しかし、計画経済にしても、未来社会論にしても、民主主義を土台に発展させるのであれば、その民主主義をどのように形成していくのかの方法論がハッキリしていなければなりません。そして、その方法論が民主集中制では、恐らく現代社会の普通の人々は到底それを受け入れることは出来ないと思います。今回の大阪市長選挙で問われていた問題の一つは、民主主義にはお金がかかることをどう理解するのか?ということであったと思います。民主主義は、みんなの意見を吸い上げ、それを闘わせ、時には調節する機能ですが、そのためには広報や議会の設置、議員の雇用など、費用が必要なのは言うまでもありません。そしてそれに関する最高決定者は住民自身です。しかるに最近は住民自治は後退し、派手なパフォーマンスの政治家が注目され、その政治家の個人的野望のために住民自治が利用されるという構図が出来ているのだと思います。共産党は、このような日本社会の現実を変革するための勢力です。そのためには、自分自身の内部に民主主義を形成する経路、回路を持つことが重要ではないでしょうか?共産党の内部に民主主義を、共産主義者の自治としての共産党を形成することがあってはじめて、またそのような動きと共同して、日本の民主主義を、まさに民主的に充実させることが出来るのではないでしょうか?
下からの民主主義革命と経済社会の民主化は両軸の運動です。議会で多数を取るまではポピュリズムに任せるというのではあまりにもお粗末であると思います。またポピュリズムに実質的には乗っているのに、科学的社会主義の党と称して上から大衆と党員を指導するという姿勢は、やはり大阪市と同様に今後機能しなくなると思います。
自分自身はこれまで組織の温存と権力奪取を至上命題としてきたので民主集中制を肯定してきました。それは恐らく自分自身が自治団体に失望した経験があるからだと思います。学生時代の自治団体では、むき出しの個人主義的利得主義と権力志向の板ばさみでした。それの苦い経験があるからかもしれません。また、社会主義論、共産主義論も関係していると思います。目指すべき社会像もそうですが、客観的に社会はどのように変化していくのかに関しての整理と理解がなければ、自分も民主主義を積極的に擁護することは難しかったと思います。とはいえ、非常に意固地であったとは思います。
少々中途半端ですが、以上です。