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再び赤いたぬきさん、エガリテさんへ

2012/1/14 丸 楠夫

赤いたぬきさんへ

 丁寧なご返信ありがとうございました。大変興味深いリンク先・資料のご紹介いただいたことも、あわせてお礼申し上げたいと思います。  赤いたぬきさんの指摘される、地方自治における住民自治の空洞化、ひいては労働組合はじめ各種社会団体における当事者・構成員自治の形骸化の危機や重大性は、まさしく日本の民主主義の帰趨を決しかねないぐらいの、深刻な課題であると思います。また、革新陣営・大衆運動が地方自治・住民自治について十分考えてこれていなかったのではないか、というご指摘についても、改めて考えさせられました。例えば戦後の労働運動でも、ようやくワーク・ライフ・バランスということも言われるようになってきてはいますが、労働者・組合員の地域・社会(ひいては政治)参加を促していく、その上で重要になっていくであろう、労働時間の短縮、という点については、取り組みが弱かったよう思います。賃金や福利厚生だけが充実していっても、労働者個々が長時間過密労働の企業主義的統合に絡め取られてしまうなら、労働者・組合員を地域・社会・政治から隔絶し(政治的なこと以外でで考えても、地域の祭りや伝統行事・文化がもっぱら農家や自営業の方によってかろうじて担われていたり、あるいは定年退職と同時に居場所を失ってしまったこのように感じる仕事人間等々)、それがやがては労働組合への参加意欲・意識にもマイナスに作用して言ったのではないか、といったことも検討し直して見なければならないのかもしれません。

エガリテさんへ

・選挙スローガンの有効性を決める要因

 この度も資料、情報のご教授ありがとうございました。遅くなりましたが、エガリテさんからのご質問の点を中心に、私の考えを述べてみたいと思います。
 大阪ダブル選挙に当たっての、日本共産党大阪府委員会と「明るい会」のスローガン「安全・安心・やさしさの大阪」。これもまた一種の「「思考停止」のスローガン」である、「共産党は闘う政党です。戦いのスローガンを掲げない限り選挙では躍進しないと見ています。」というエガリテさんのご指摘には、私も異論はありません。少なくとも「安全・安心・やさしさの大阪」というスローガンには、”共産党”が本来持つべきであろう、(もちろん、単に”過激”ということだけではなくて、より根源的な観点から変革を求めていく、という意味も込めての)”ラディカルさ”はあまり感じられないように思います。むしろ橋下・維新の会の方が、そういった”ラディカルさ”を有権者に感じさせる点では、勝っていたのではないか。そして少なからぬ大阪の有権者が求めていたのも、ある種の”ラディカルさ”だったがゆえに、そのような大阪有権者の心情により答えられるかのように見えた橋下・維新の会が圧勝できたのではないか、と推測することも出来るかもしれません。
 ただ、そのような「安全・安心・やさしさの大阪」というスローガンの当否とは別に、「反独裁」というスローガンが今回の大阪ダブル選挙のスローガンとして妥当なものであったかどうか、の検証もまた、必要であると私は思います。  エガリテさんのご指摘の中に

「・・・一斉地方選挙では共産党は大きく議席を減らしました。しかし最近の地方選では一定善戦しています。これは、原発に対する「安全点検」から「原発反対」に舵を切ったことが大きく影響していると思います。国民目線に立った政策の立案がなされたとき、運動員も元気が出るし、票も獲得できると思っています。この辺にカギがあると私は見ています。」

という一節がありました。「安全点検」よりも「原発反対」の方が、より「国民目線に立った政策」となりえたのは、震災に伴う福島第一原発の重大事故によって、原発が本質的に抱える重大な弊害と危険性、従来の原発の管理・運営体制と原発推進政策の犯罪的なデタラメさにつての認識が、国民の少なからぬ層に共有されたからではないかと思います。逆に言うと、震災も原発事故もなければ、国民の間における原発(政策)への危機感・反対意識の共有は、従来の水準を越えられなかった、つまりは「「安全点検」から「原発反対」に舵を切」ることが――長期退潮傾向の共産党に一定の善戦をもたらすほどの――「国民目線に立った政策」とまではなり得なかった可能性も、決して低くなかったのではないでしょうか。もちろん、原発が本質的に抱える重大な弊害と危険性、従来の原発の管理・運営体制と原発推進政策の犯罪的なデタラメさに鑑みれば、「「安全点検」から「原発反対」に舵を切」ることは、福島第一原発事故以前においても「国民目線に立った政策」であることに変わりは無いはずです。しかしながら、それが実際に、「国民目線に立った政策」であると国民に”見なされる”・”見なしてもらう”ためには、まず国民の側の意識において、原発に対する認識が「安全点検」から「原発反対」へ、と舵が切られていなければならず、それ抜きでは、共産党一人が「安全点検」から「原発反対」に転換しても、少なくとも選挙での善戦にすぐさま直結する政策・スローガンにはなりえない可能性が高い、ということになるのではないでしょうか。
 このような考えに立って、大阪ダブル選挙における「反独裁」スローガンの妥当性について検討するならば、「反独裁」スローガンが、選挙の時点で、大阪府民・市民目線に立ったスローガンであると大阪府民・市民に”見なされて”いたか、”見なしてもらえる”ものだったか?という点から、まずは検討されなければならないのではないでしょうか。そして、仮に、私が前回の投稿で述べた仮説――社会運動、下からの、自ら闘い取ろうとする運動、自ら参加する闘いの解体の結果、上からの”リーダーシップ”による他力本願的・恩寵的変革に期待する・期待せざるを得ない、という状況ゆえに橋下・維新を支持する人にとっては、「独裁」性はデメリットと見なされない(もっとも、この場合の「独裁」は、自分たちの代わりに橋下・維新が多少強引にでも全部何とかしてくれる、ぐらいの感覚であろうとは思います)、むしろ「独裁」(強い”リーダーシップ”!)だからこそいいんだ、ぐらいの認識をしている可能性――に妥当性があるとするならば、まずは橋下・維新の「独裁」性、「ファシスト」性が我々に具体的にどのような弊害をもたらすのか、から説いていき、橋下・維新の「独裁」性、「ファシスト」性の弊害の認識の共有が出来て初めて、ようやくそこに立脚して「反独裁」スローガンが大阪府民・市民目線に立ったスローガンであると大阪府民・市民に”見なされる”・”見なしてもらえる”、そして選挙での勝利ないし善戦に結び付けられる、ということになるのではないかと私は考えています。また、そのような認識の共有を実現するためには、橋下・維新の個別具体的な政策・公約・方針、これまでの活動・行動に対する、反対・対抗・対案への組織化によって、橋下・維新の会のイメージを掘り崩していくことになるかと思います。しかしながら、そもそも個別具体的な反対・対抗・対案への組織化にあたって、その時点ではまだ多くの大阪府民・市民からは、府民・市民目線に立ったスローガンとは必ずしも見なされていないかもしれない「反独裁」スローガンを前面に打ち出す必要性・有効性、選挙報道等によって「反独裁」スローガンばかりが先行してしまう等を考慮すると、府民・市民目線に立ったスローガンとは必ずしも見なされていないかもしれない段階での、今回の大阪ダブル選挙においての「反独裁」スローガンの妥当性については、やはりなお検討の余地があるように思います。

・公務員労働運動について、若干

 かつての春闘においては、民間大企業労組が妥結した正規男性従業員の給与水準を目標として公務員・公共企業体労組がベア・昇給を要求し、そうして勝ち取られた公務員・公共企業体の賃金水準を目安ないし目標として中小民間企業労働者の賃上げへと波及していく、という図式が一応成立していたかと思います(もっともそれは、民間大企業労組にしろ公務員・公共企業体労組にしろ、底辺の引き上げ、底上げを目的意識的に追求してのこととは言いがたく、結果的にそうなっていた、と言う方が限りなく近いでしょうが)。しかしこの図式はすでに空洞化、形骸化し、また、特にバブル崩壊以後は民間企業労働者の賃金・労働環境が一方的に悪化し、相対的に公務員の賃金・労働環境が突出してしまった、という面もあるかと思います。公務員労組・労働運動は、公務員の労組・労働運動としてだけではもはや立ち行かなくなりつつあるのかもしれません。非正規・中小零細・女性・失業者まで視野に入れて、地域や関連職種・産業全体の労働環境底上げ・底辺引き上げを目的意識的に追求する労組・労働運動の再構築が迫られているのだと思います(公務員労組に限った話ではないでしょうが)。