エガリテさんの投稿をいつも読ませていただき、エガリテさんの現状に対する危機感や真摯さ真剣さには、私自身もまた大いに共感するところであり、その主張の論旨においても多くの点で私も立場を同じくするものです。また私のような若輩者の意見に対して、注意を払っていただき、なおかつ真剣にご検討していただいた上での真摯なご意見、ご指摘、ご質問寄せていただいたこと、大変ありがとうございました。
今回、改めてエガリテさんより寄せていただいたご指摘、ご質問について、弁解と前回の私の投稿で言葉が足らなかった部分についての補強、ご質問への回答をさせていただきます。
エガリテさんの今回の投稿中でのご指摘の順番とは前後してしまいますが、最初に、前回の投稿で私が、「・・・一斉地方選挙では共産党は大きく議席を減らしました。しかし最近の地方選では一定善戦しています。これは、原発に対する「安全点検」から「原発反対」に舵を切ったことが大きく影響していると思います。国民目線に立った政策の立案がなされたとき、運動員も元気が出るし、票も獲得できると思っています。この辺にカギがあると私は見ています。」というエガリテさんのご指摘を受けて述べた
「「安全点検」よりも「原発反対」の方が、より「国民目線に立った政策」となりえたのは、震災に伴う福島第一原発の重大事故によって、原発が本質的に抱える重大な弊害と危険性、従来の原発の管理・運営体制と原発推進政策の犯罪的なデタラメさにつての認識が、国民の少なからぬ層に共有されたからではないかと思います。逆に言うと、震災も原発事故もなければ、国民の間における原発(政策)への危機感・反対意識の共有は、従来の水準を越えられなかった、つまりは「「安全点検」から「原発反対」に舵を切」ることが――長期退潮傾向の共産党に一定の善戦をもたらすほどの――「国民目線に立った政策」とまではなり得なかった可能性も、決して低くなかったのではないでしょうか。もちろん、原発が本質的に抱える重大な弊害と危険性、従来の原発の管理・運営体制と原発推進政策の犯罪的なデタラメさに鑑みれば、「「安全点検」から「原発反対」に舵を切」ることは、福島第一原発事故以前においても「国民目線に立った政策」であることに変わりは無いはずです。しかしながら、それが実際に、「国民目線に立った政策」であると国民に”見なされる”・”見なしてもらう”ためには、まず国民の側の意識において、原発に対する認識が「安全点検」から「原発反対」へ、と舵が切られていなければならず、それ抜きでは、共産党一人が「安全点検」から「原発反対」に転換しても、少なくとも選挙での善戦にすぐさま直結する政策・スローガンにはなりえない可能性が高い、ということになるのではないでしょうか。」
について弁解と補強をさせていただきたいと思います。
これは一つの例えとして述べたもので、私自身には、実際の日本共産党の原発政策の変化の過程について述べる意図も、そのような変化の過程を合理化・正当化する意図もまったくありません。むしろ共産党の原発政策に対する見方としては、私はエガリテさんと立場を同じくするものです。では何の例えかといえば、「国民目線に立っ」ているはずの「政策」が、必ずしも常に現状・現実の「国民目線」と一致しているとは限らない(逆から言えば、「国民目線に立っ」ているはずであろう「政策」であっても、国民の多くから、それが「国民目線に立った政策」とは見なされない場合があり得る)こと、そして「国民目線に立っ」ているはずの「政策」が大きな力になる、実現される、ためには、そもそもより多くの国民からその「政策」が「国民目線に立っ」ている、と見なされなければならない(逆に言うと、「国民目線に立っ」ているはずであろう「政策」であっても、国民の多くから、それが「国民目線に立った政策」とは見なされないならば、大きな力とはなり得ない)こと、したがって「国民目線に立っ」ているであろうはずの「政策」が、十分には現状の現実の「国民目線」たり得てない場合に、そのような「政策」を大きな力にするためには、まずは「国民目線」そのものの変化が必要であること、です。
これをエガリテさんが危惧・指摘される、「窮乏革命論」的な「国民の意識が成熟するのを待つ」式の論理、「国民の後ろからついていく、「国民の意識変革」が先だ」的あり方に陥らないようにするためには、「国民目線に立っ」ているはずの「政策」を大きな力にしていく・実現していく上で、場合によってはまず、「国民目線」そのものの変化を促す取り組みが必要になっていくことがあり得る、という認識が不可欠になるかと思います。原発政策の例えに引き付けて言えば、「原発反対」を名実ともに「国民目線に立った政策」とするべく、原発容認ないし無関心が多数の「国民目線」を変えることに主体的に取り組み、なおかつそれが成功していたのなら、「原発反対」という「国民目線」を力に、今回の福島第一原発の事故を未然に防ぐことも出来たかもしれません。
以上を踏まえると、エガリテさんの指摘される「前衛政党か国民政党かの理論的整理」の問題は、一面では、今現在の国民の「目線」・意識に迎合する・自らを適合させる――あたかも企業が”マーケティングリサーチ”によって”消費者ニーズ”をつかみ、それにあわせた”商品開発・販売”や”事業展開”を図っていくかのごとき――政党像(このような政党像は、民主主義についてのもっともシンプルで分かりやすい理解・解釈から導き出されがちな政党像ではあります)か、今現在の国民の「目線」・意識を絶対視することなく、それらをも働きかけ・変革の対象と位置づけることで、より根本的に政策や綱領の実現を目指していく(このような発想を”強権的に””一面的・表面的に”実行しようとした場合、大衆運動の引き回しや一党独裁国家における”思想統制”や”思想改造”といった行動の根となる可能性についても、一応留意しておく必要があるかもしれません)政党像か、と言い換えることも出来ると思います。また、「前衛政党か国民政党かの理論的整理」の問題は、もう一面では、政党として拠って立つ基盤をどこに置くのか、の問題と言い換えることもできるかと思います。”国民”とは本来、”(日本)国籍保持者”という意味でしかないはずです。みもふたもない言い方をすれば、経団連役員から非正規労働者までを一くくりに含む概念が”国民”です。”国民”は均一でもなければ均質でもなく、その内部にさまさまな階層分化や階級対立を含んだ存在です。”国民”のどのような部分にどのように依拠するか、が、どのような政党を形作るかに関わってこざるを得なくなってくる、といえるかと思います。例えば、あたかも企業が”マーケティングリサーチ”によって”消費者ニーズ”をつかみ、それにあわせた”商品開発・販売”や”事業展開”を図っていくかのごとく、没階級的・没階層的にその時々の国民の最大多数派への依拠(支持獲得)を目指して組織・活動・政策を形作るのか、自らが現に立脚している、あるいは立脚すべき階層・階級を意識して組織・活動・政策を形作るのか、が「前衛政党か国民政党かの理論的整理」の上で、一つの課題となるかと思います。”国民”の既存の意識に働きかけ、その変化を主体的に促さんとすることまで視野に入れた「前衛政党」であるならば、当然後者のあり方を追求していくことになるでしょう。それは、レーニン主義的な原則論・階級政党論ということもさることながら、”国民”とか”市民”とか”無党派層”といったくくり方、対象の想定の仕方では、具体的な変化を意図して具体的に働きかける対象として想定するには、あまりにも大雑把かつその内実が実際には多様・分化しすぎていて、具体的に実際何をどう働きかけるべきなのかが、雲をつかむような話になってしまうからでもあります。もちろん、例えば「反原発」といった政策は、階層・階級を超え得る闘争課題です。そういう個別具体的な闘争課題であれば、階層・階級をそこまで考慮せずとも、具体的な働きかけ・闘争の組織化について想定することも可能だし、また、そういうものとして大いに取り組まなければならないでしょう。重要なのは、日常により即した具体的で切実な要求・課題・分野を通しての働きかけであればあるほど、――例えば、民主党が選挙時に打ち出した、農家の個別所得保障制度が、これまでほぼ自民党支持一辺倒だった農協・農業票の切り崩しに一定寄与したように――既存の政党支持や政治的志向・意識などの垣根も越えて、行動を組織できる可能性も高まり得るであろうという点です。もっとも、そういった具体的な課題別・分野別の(あるいは拠って立つ階層・階級の利害に沿っての)働きかけ、行動・闘争の組織化を図る活動が、直近の選挙での前進を保証するかは分かりません。しかし前衛政党たらんとするのであれば、直近の選挙での成果ありきで闘争を組織する、という発想は捨てるべきでしょう。一方で、選挙が、前衛政党による国民の意識変革まで視野に入れた日常的な活動、働きかけの度合いとその広がり・深化を示す、一つの、分かりやすい指標となることも確かでしょう。なぜなら、選挙とそれによって構成される議会等は、選挙が行われた時点における、全体としての国民・有権者の政治的志向・意識の現れにほかならないのですから(比例代表制であればその志向の分布や比率までがより正確に反映され、小選挙区制であれば相対的多数派の志向により集約され(てしまっ)た形で反映されることになります)。
次に、私が、大阪ダブル選挙について――エガリテさんの言葉をお借りすれば――「選挙戦のスローガンが「独裁」であったから負けたという一点に問題を集約」し「主張」しているのは、あくまで”今回の大阪ダブル選挙における”、”平松陣営全体”、反橋下派陣営”全体”の(これほどまでの)敗因として、という限定の下でのことであり、仮にこの私の仮説が妥当なものであったとしても、それによって「共産党の体質の問題や選挙での取り組み(赤旗を増やせば勝てる)の誤り等」が、あるいは――こちらもエガリテさんの言葉をお借りすれば――共産党(のとりわけ大阪府委員会)が打ち出した「安全・安心・やさしさの大阪」という「国民の意識の変革を目指」すことなき「安定志向」のスローガンの弱点等が、なんら免罪されるものではない、ということは、ここではっきりと明言し、強調しておきたいと思います。
さて、政党・候補者の視点で見れば、選挙は農作物の収穫に例えることもできるかと思います。収穫(選挙)の仕方の上手下手は当然あるものの、農作物の出来、見込まれる収量(政党支持率、得票数・率)は本質的に収穫以前の段階でおおむね決まっている(収穫作業段階での大幅な収穫量増加は一般的に見込みがたい)、という点においてです。例えば、社会運動、下からの、自ら闘い取ろうとする運動、自ら参加する闘いの解体の結果、上からの”リーダーシップ”による他力本願的・恩寵的変革に期待する・期待せざるを得ない、という状況(土壌・畑)のもと、橋下・維新支持へ傾いている・傾きつつある、あるいは橋下・維新の「独裁」性を必ずしもデメリットと見なさない(もっとも、この場合の「独裁」は、自分たちの代わりに橋下・維新が多少強引にでも全部何とかしてくれる、ぐらいの感覚であろうとは思います)、あるいはそれを必ずしも拒絶しない相当数の有権者(収穫期を迎えた作物)を、投票させる(収穫する)段階になってから、「反独裁」を優先的・全面的ないし一面的に打ち出す様な手法で、橋下・維新に対抗できるのか?有権者の切実な生活要求と切り結んでいけるのか?むしろ”収穫段階”では橋下・維新を利する面さえあったのではないか?というのが私の仮説でした。あるいは赤旗拡大についても、このたとえは当てはまるかもしれません。社会主義・共産主義や左翼的・戦後革新的思想・理念・政策・価値観・運動への拒否感ないし無関心が広がっている”畑”に、赤旗という”種”をまこうとしても早々芽は出ない(部数は拡大しない)。それどころかすでにある苗(既存の読者)すら立ち枯れていく(購読を打ち切る)・・・。そう考えていくと、赤旗読者の減少は、共産党の危機の原因というよりも結果である、という見方も出来るかと思います。
それはともかく、共産党、ひいては革新陣営全体の得票数・率の低下が、とりわけ長期的な傾向であるならば、それは根本的には、一回一回の選挙での取り組み(収穫作業)次第で打開できるものではない、土作りその他の収穫作業以前の段階から見直していかなければならない、ということにならざるを得ないと思います。
例えば、日本の雇用労働者の数は約5千万人ほどとされているようです。この中には当然、未成年者や外国籍の人など、有権者でないものも含まれているでしょうが、それでも、日本の有権者人口1億人の半数近くが雇用労働者であると推定できそうです。とすれば、日本の半数近い有権者が、その生活時間のもっとも多くを過ごしているであろう労働の現場、”職場”のあり方が、有権者の政治的志向・意識や投票行動に影響を与えないはずがありません。その職場において過労死、過労自殺にさえ追い込まれかねない長時間・過密労働、あるいはいつ生活の糧を絶たれるかも分からない不安定雇用を強いられ、あるいは人々の安全のためや業務の良好な遂行のための人員・労働環境すらままならない中で、それでもほとんどの職場で、多くの労働者が、そのような現状への屈服、無抵抗、不戦敗に甘んじざるを得ない状況下にあるとすれば、それでどうして、本質的にはなお、(少なくとも国会に一定の地歩を築きうる政党の中では)相対的に、労働者の党、現状の社会のあり方への抵抗し、より根本的変革を求める立場にある共産党が、選挙で前進できるでしょうか?共産党ないし革新・左翼的政党が選挙において着実に、本格的に前進の軌道に乗るときが来るとすれば、それは、全国津々浦々の職場をはじめとする生活に密着した場、日常により近い場からの、”現状”に対する抵抗、運動、自治、自立、連帯をより強固に、より広範に組織し得たときよりほかにないのではではないでしょうか。なぜなら、そのような中から変化し、形成される「意識」こそが、本来、共産党ないし革新・左翼的政治勢力を、選挙において押し上げようという有権者の政治的志向、”現状”を、既存の社会のあり方をそのままでは良しとしない、左翼的立場からの変革を求める志向へと繋がり得るものであると、考えられるからです。
労働者階級(もっぱら雇用労働によって生計を維持する者、という経済的な意味・カテゴリーとしての”労働者階級”に現に依拠しているにとどまらず、そのような労働者階級(に属する人々)を政治的な意味での――つまり、労働者階級としての権利や要求を意識し、その行使や実現のために、行動しようと、自らを組織して行こうと取り組む――労働者階級とその運動に依拠し、かつそのような労働者階級の形成に主体的に尽力する運動体として)の党、経済的中下層に依拠し、その利益を擁護するとともそれら諸階層の運動を組織し、その運動に依拠する党、というあるべき原点を改めて見つめなおす必要が日本共産党には求められているように私は思います。また、共産党と現状の国民意識との乖離の大きな要因の一つである、共産主義・社会主義への少なからぬ国民の拒否感・忌避に対応していくためには――従来の、多段階革命論を流用した”今すぐ社会主義・共産主義は目指しません”式の対応に換えて――、共産主義・社会主義の党という立脚点を改めて明確にした上で、社会主義・共産主義の20世紀的展開(ロシア(ソ連)・東欧的、中国・ベトナム的、北朝鮮的展開)とはまったく異なる、民主主義的・21世紀的展開を如何に示していくか、示していけるか、という方向での対応こそを日本共産党は追及していくべきだと私は考えます(注)。また、それらより根本的・中長期的課題とは別に、より短期的な党勢維持・つなぎ止め策としては、今いる党員、民青同盟員、後援会員、機関紙読者、支持者と共産党との結びつきを維持し強めていくことが不可欠だと思います(そのためにも、エガリテさんの指摘されるような、打ち出すべきスローガンや重点政策の問題点は重要であろうと、私も思いまが、ここでは、主に組織・活動の観点から、述べてみようと思います)。今いる党員、後援会員、機関紙読者、支持者と共産党との結びつきを、従来のような、党機関・中核的党員・同盟員・支持者・後援会員による一方的な”働きかけ”によって達成していくには限界があるものと私は考えます。従って、今いる党員、民青同盟員、後援会員、機関紙読者、支持者の側からの、党(の活動)に対する参加・連帯意識、参加意欲をいかに引き出すか、高めていくか、を意識的に追求していく必要があると思います。そのためには、例えば党員一人一人が、自らが参加・実行を求められる党の活動・運営方針について、その決定に至る”過程”の段階から、自ら自身が十分に関与した・関与できた、そうして決まった方針、自分(達)が決めた・作った方針だとどれだけ実感できるか・出来ているか、が重要になってくるのではないでしょうか。さらにそのためには、党の活動・運営方針について全党的な多角的検証・検討を(決定前はもちろん、現場の実践を踏まえた、決定後の検討・検証も)制度的に保障し、かつ積極的に促すこと、定期的・日常的な全党的討論の組織化に向けた取り組み、党内民主主の充実強化(党運営のあらゆるレベルででの一般党員・当事者の参加・参加できているという実感の向上)、が、改めて課題になってくるのではないでしょうか。あるいは、より直近の選挙対策に即して考えれば、――来る総選挙では、全ての小選挙区で候補者擁立を目指す、という方針も出たようですが――各小選挙区ごとで、党員、民青同盟員、後援会員、機関紙読者全員を参加対象として、当該小選挙区における候補者擁立の可否、党公認・推薦等の擁立形態の決定等も含む、――候補者の政見と党の基本政策等との整合性は担保しつつ、できる限り党内外から広く人材を募っての――予定候補者選考(会・予備選挙)を実施・組織する(それによって、選挙に際してもっとも基礎的な支援者・票田たる党員、民青同盟員、後援会員、機関紙読者の支持を――候補者を立てるにせよ、あえて比例一本で行くにせよ、各選挙区単位で――あらかじめ確認し、固めたその上で、あらためてより広範な有権者の中に打って出る、選挙に臨むようにする)、というのも一案かもしれません。
まずはもっとも身近で基礎的な党の支持者との関係を、より双方向性型の、積極的・直接的参加型の結びつき方で強化していく、ということは、基本的には(一般的・平均的有権者に比較して)より左翼的、戦後革新陣営的志向の層の意向や心情、要求に共産党により向き合わせる、より深く寄り添わせることになるでしょうから、エガリテさんの指摘される、スローガンや重点政策の打ち出し方の弱点(戦闘性、左翼的・革新政党的打ち出しの弱さ・忌避)が、予防、是正・改善されやすくなる可能性も高まるように思います。また、組織・運動における(より当事者参加型の)民主主義の充実強化は、社会主義・共産主義の民主主義的・21世紀的展開を如何に示していくか、示していけるか、という課題においても寄与するのではないでしょうか。
注、
イタリア共産党の左翼民主党、さらには民主党への転換・変遷とそれによる政権参加・獲得等を、(旧)共産党の成功モデルと見る向きもあるよです。確かに旧イタリア共産党組織(の系譜)はそれによって存続に成功したかもしれませんが、”政党とは政策・理念を実現するためのもの(つまり党”組織”はあくまでその手段・道具である)”という政党論の観点に立つとするならば、(理念・政策の放棄ないし転換によって、組織の防衛・存続・発展を達成した)イタリア共産党~(左翼)民主党モデルは、共産党の失敗例のもう一つ、と見なすことも、一面では出来るのではないでしょうか。
次に、直接ご質問受けました3点について回答させていただきます。
まず、地方選挙における争点設定について。これについては「私は府(県)会議員や市会議員選挙の争点は、その現場の独自の課題を前面に掲げるべきだと思っています。」というエガリテさんの見解と、私もまったく同じ考えに立つものです。地方自治体の選挙や運営は、全国的な政治活動の単なる足場などにとどまるものではなく、それ自体が、独自の課題と意義を持つものであるはずです。もちろん多くの自治体が全国的に共通して抱える問題というものもあるでしょう。だから、例えば今回の震災を受けて、被災地域以外の自治体(選挙)であっても”防災対策の見直し、充実”を言うのであれば、それは一定の妥当性を持つかもしれません。しかし、被災地域でもないところで、「復興」を言うとすれば、それは明らかに争点設定が不適切といわざるを得ないと私は思います(ただ、私の周辺で、私が直接接した範囲では、共産党候補が「復興」を自治体選挙で前面に掲げて臨んでいた印象が薄かったので、エガリテさんが指摘される「一せい地方選挙の争点を共産党は震災からの復興を第一の課題と設定し、全国津々浦々で同じスローガンで戦いました。」について、私自身はあまり確認・認識できていませんでした)。
次の、旧WTCの問題については、私が地元(大阪)の事情に疎いという点は予めご容赦、ご考慮いただきたいのですが、まず、エガリテさんの言われる「旧WTCの失敗は3.11の震災を経て問題点が浮き彫りになった」ということについて言えば、旧WTCが埋立地に建つ高層建築であり、その立地から地盤・地震防災上大きな不備があることは、以前から指摘されていたものと記憶、認識しています。それが今回の東北の震災で改めて広く再確認、再認識されたのであろうと思っています。また、橋下大阪府政による旧WTCの利用・再開発政策が、問題多き旧来型大規模開発事業やその失敗の尻拭いを公費であがなう(ことで、公的な、つまりは住民・庶民の損失・負担を多くの場合拡大再生産し、一方で特定の既得権益者に奉仕する)の延長にあるものであり、したがって橋下・維新の”既得権益攻撃”が、必ずしも”全ての”既得権益に向けられるものではないこと、橋下・維新の”既得権益攻撃”には恣意的な選別が行われていること、その橋下・維新の恣意的な選別とは、問題多き旧来型大規模開発事業やその失敗の尻拭いを公費であがなう(ことで、公的な、つまりは住民・庶民の損失・負担を多くの場合拡大再生産し、一方で特定の既得権益者に奉仕する)旧WTCの利用・再開発に関しては”既得権益攻撃”の対象から外すような類のものであること、したがって旧WTC問題が、”庶民のための(上からの、恩寵的な、強い)改革者”としての橋下・維新の表向きの顔とは別に、(橋下本人の主観や自覚はともかく)実際にその政策・施策が、どのような層の利害に寄与し、どのような層の利害に反するかの一端を垣間見せるものであること、は少なくとも考慮してもよいように思います。もっとも、共産党が実際にそこまで射程に入れて旧WTC問題を訴えていたのか、訴えられたのか、単に手っ取り早く分かりやすい橋下の失点として取り上げる域を出なかった、府民・市民にそう受け取られる域を出なかったのではなかったか、といったことは、上記の視点とはまた別個に(取り組み方や全体の位置づけ方としての問題点)論じられる必要があるとは思います。
次に、四中総志井報告の橋下・維新認識についてです。まず、「橋下・「維新の会」の策動」が「地方からファッショ的な拠点を作り、国政に広げようというきわめて危険な動き」であるのかどうか以前に、「橋下・「維新の会」の策動」が具体的にどのような問題・弊害を持つのか、「橋下・「維新の会」の策動」の余地が生じてしまったのはなぜなのか、その余地とはどんなもの(条件・状況)で、どこに存在するのか、等を明らかにしない限り、それが「ファッショ的」であるかどうかに関わりなく、「橋下・「維新の会」の策動」に具体的に有効に対処・対抗していく方向は開けない、開きようがないものと私は考えます。この点、四中総には踏み込みの弱さがあるように私は感じます。この点での踏み込みの弱さを抱えたまま、「橋下・「維新の会」の策動」を「ファッショ的」と規定したとしても、一定の層に対して「橋下・「維新の会」の策動」への危機感を一定高める以上の効果は限定的であり、それは、大阪W選挙における反橋下陣営の敗北にも共通する構造であるように、私には思えます。
高度成長期のような、全体としての経済的なパイの拡大を前提として、広範囲な階層へパイを分け与えられた時代――実際にその分け与えられ方には厳然たる格差があったとしても、一方で、分け与えられるパイが年々大きくなっていくであろう見通しをそれぞれが持ちえた時代――とは異なり、今の大阪、ひいては日本においては、誰かから奪う(分け前を減らす、負担を負わせる)こと無しには、誰かに分け与えることは出来ない。だからこそ橋下は(一面では確かに、相対的に与えられすぎていることも否定できない)公務員・行政機構から奪うことで、他の有権者からの歓心を買っている。しかし公務員・行政機構から奪える程度のものでは、多くの階層に実際に目に見えるほどの分け前までを保障出来ようはずもなく、従ってそれだけでは、多くは、例えば(橋下自身が肝いりで任命した教育委員からすら、子供たちの成長にも学力向上にも寄与しないどころか、マイナスにさえなる、と指摘されてしまうような)教育基本条例等のような、実体的利益を伴わない、理念的(ないし気分的)な”成果”(あるいは鬱憤晴らし)しか提供できない。橋下が公務員・行政機構以外の誰からも(少なくとも直接的には)奪うことなく、それでも目に見える成果(例えば経済成長率だとか財政再建だとかの数値)を上げようとするならば、新自由主義的諸政策(緊縮財政、公共分野の縮小・民営化、規制緩和・経済特区的企業優遇・誘致)の実施へと向かわざるを得ない。しかしすでに多くの国の実例で明らかになっているように、新自由主義的諸政策によって利益を得る層はほんのわずかであり、それによって何らの不利益も被らずに済む層はほとんどいない。ゆえに橋下は、自らへの支持を、社会統合の担保を、政治的正当性を、ますます理念的な(愛国的、復古主義的方策)、あるいは強権的な(治安や規律の維持・向上等を名目とした方策など)手法によって調達せざるを得ない――――といったことが、おそらく今後橋下が、そして我々自身が直面することになる事態なのではなかろうか、と想像することもできるように思います。
我々がきちんと見極め、問い直すべきは、いわゆる「橋下・「維新の会」の策動」によって、実態的利益を得る層は実は多くないのではないか?むしろそれによって何らの不利益も被らずに済む層は少ないのではないか?ということではないでしょうか。そして「橋下・「維新の会」の策動」によって、実体的利益を得る層は多くなく、むしろ何らの不利益も被らずに済む層こそ少ない、ということであれば、そこにこそ「橋下・「維新の会」の策動」に対抗していく上での、我々にとっての確かな余地があるのではないでしょうか。なおかつ、多くの府民・市民が、自らにとっての真に切実な具体的要求に沿った諸運動を通すことで、”真により多くの負担を負うべき相手は誰なのか?””大阪の抱えるより本質的な問題点や対処すべき構造は何なのか・どこにあるのか”を一歩一歩明らかにし、共通認識を形成していく延長線上に、今回の市長選における平松陣営(注)の規模を超える広がりと深さ、強度を備えた、「橋下・「維新の会」の策動」に対抗する陣営を築き得るのではないでしょうか。
注、 橋下との比較だけではない、”平松市政”や”平松の政策・公約”それ自体が、大阪庶民の利益に沿ったものだったのか、支持するに足るものだったのか、という観点からの総括も、そろそろ必要かもしれません。