運動において、「内部にスパイや工作員がいるかもしれないから気をつけろ」と
いう言葉は、
いわゆる「排除」や「粛清」(民主主義の反対物)を誘発する意識の種なのだと
思っている。
それが基本的な見方での対立と混乱いりまじることがあると、とんでもなくなっ
たりする。
もちろん、問題のある(能力のない)指導者の存在も大きいわけだが、今までは
たいてい
指導者(スターリンのせい、麻原のせい)か社会制度(共産主義社会だから、カ
ルトだから)か思想(ボルシェビズムだから、オウムだから)に原因を 求め、
それを攻撃すれば、あるいはやめれば問題は解決だと思われている。
この、さざ波通信でも、そういう意見がたくさんのっている。具体的な運動の分
析に基づいた考察もないではないが、それらは長いさざ波通信の投稿、 議論の
中に残念ながら埋れがちであったと思う。
でも、ちがう。 世の中を本当に変えようと思うなら、それをおさえつけようとする勢力はあるの であり こういう警戒意識は必然的に出てくるし、必要でもある。そういう干渉は事実と してある。
「この人はスパイではないか、反革命ではないか、原発村にに金で買われた工作 者ではないか。気をつけろ。いうことをきく な。」
この、それ自身は状況の中では必要なことが、度外れな、不当なものに転化して しまう契機は何か、それを防ぐには、何が必要なのか。これは解決され ている とはいえない。悪(民主主義の否定)はいつでも、相手の側にだけあると考えて 安心することはできないのだ。