ある報道番組を見ていたら、興味深い場面に出会った。
首相官邸前脱原発再稼働反対抗議行動の毎週金曜日夜の連続は、一時のブームに陥ることなく、継続的持続的で広範な国民各階層に幅広く広がっている。
この様子について司会から感想を求められたコメンテーターが、自分の意見を述べた
佐高信氏は、市民運動が清廉潔白なままじり貧になるのではなく、どろどろした政界の権謀術数にも臆することなく身に付けて、市民運動の勢いを現実の政治改革につなげてほしいと述べた。
一方、自らが新党さきがけのメンバーとして、内閣の副官房長官の経験がある田中秀征氏は、佐高氏と異なる意見を述べた。市民運動は、いたずらに政界入りして政治の渦に飲み込まれるよりも、脱原発に特化して、厳しく政党の現実政治行動を吟味して、政党の枠組みにしばられることなく、市民運動独自の意義にもとづいて展開していくべきだと述べた。
市民運動が、左翼も含めて政党の下請け機関と化することの悲喜劇。かつての社会党と原水禁、日本共産党と原水協。私は市民運動には独自の意義があるという点で、田中秀征氏の見解に共感を覚える。ヨーロッパに戦術核兵器を配備することで盛り上等割れたがった1980年代の全世界的な核廃絶運動は、日本でも空前の反核運動の台頭をもたらした。組織が動員したこともあり、各地で数十万人単位の抗議集会が開催された。ふつうの市民や主婦、小学校から大学まで子どもたちも参加した。
運動が盛り上がっていった時期に、原水禁と原水協の共同行動をすすめてきた原水協側の常任理事吉田嘉清氏が、日本共産党から批判を受けて、別の理事と常任理事をさしかえられた。吉田氏に同調して、哲 学者の古在由重氏が「吉田さんが解任されるのなら、私も退席する」と述べて、日本共産党の方針を批判して、離党を表明した。
吉田氏や古在氏の論理と日本共産党の論理とは、どちらかが間違っていてどちらかが正しいという問題と次元が異なる。政党の側からすれば、核廃絶運動に向けて、政党のイニシアティブのもとに大衆団体が有機的系列的に一致団結して効果的な政治効果を求めていた。
一方、吉田氏や古在氏は、ふつうの市民が立ち上がり燎原の火のように核廃絶にたちあがった市民の声に耳を傾けて、『草の根はどよめく』(古在由重著1982年発行築地書館刊)で述べられたような時代感覚に基づいている。
今回の脱原発再稼働反対抗議行動は、今までの政党や団体とは無縁のところからも相次いで起きた。しかもそれは、ツイッターやインターネットなど科学技術の現代的な成果による情報の闘い、情報の革命的送信受信といった新たなツールをも駆使して、若者たちが立ち上がり、老若男女を問わない抗議行動となって表れた。
さきの佐高信氏と田中秀征氏のやりとりに戻れば、私は脱原発市民運動が、政党や政治とのからみで、21世紀最大の核被害として立ち現れた福島原発事故をもとにした脱原発運動として推進していくことが良いと思う。脱原発は、背景にアメリカの世界戦略や原子力ムラに群がる政界財界官界学界の利権構造がからんでいる。問題の根源には、現象としてあらわれた原子力発電所の技術問題にとどまらない政治社会的矛盾が結節している。
その点では、佐高氏が言うように、どろどろした政治の背景にまで踏みこんでいく気構えがいる。にもかかわらず、かつて市民運動を踏み台にして、とうとう内閣総理大臣にまでのぼりつめた菅直人氏の例も見られる。
ここで思い起こすのは、大学教授の座をか なぐり捨て、「原子力情報研究室」を立ち上げた高木仁三郎氏のことである。高木氏が言明し続けたことは、今回の原発事故において悲劇的に実現してしまった。高木氏のように市民運動の側から国民を啓蒙し続けたことは、政権獲得の志向と結びついていたら、あのような学問的高みにまで至らなかったろう。
脱原発市民運動は、素朴な民衆の実感をもとにして、「持久する志」として今後も厳しく福島県被災市民の哀しみと苦しみとを原点として、持続されていくことが肝要である。それは広島や長崎の都市におとされた核兵器投下の悲惨な歴史との合流と継承として、官僚や電力独占資本、アメリカ世界戦略、歴代政府への批判の継続でもある。
そのような市民の志を汲み取ることのできないような政治家、政治団体、政党は、当然にも国民の支持をも得られまい。市民団体の強い願いをもとに、政治行動を構築する政党のみが、市民団体と提携しうる。一斉に流れのように、口先だけの選挙目当ての公約として脱原発をほとんどの政党が掲げそうである。
市民運動は、脱原発の論理にもとづいてどこまでも初心を見失わず、人間破壊の原子力事故の悲惨さからの救済という重く困難なテーマにもとづいて、持続されるべきである。
どうしても政党政治がこれらの市民運動を政治の一線に汲み取ることができないのならば、「みどりの党」「みどりの風」などの環境政党がヨーロッパなみの実行力が発揮できるかが問われる。また、少ない勢力の社民党や日本共産党にとっても、戦後の歴史で平和護憲勢力として戦後史において重要な立ち位置を占め続けた歴史に立って、どのように市民運動と提携していくかがとわれている。
脱原発市民運動の対極に、ひたひたと国際環境の覇権構造のなかでアジア諸国の動きとも対応して、領土問題や拉致問題、国際経済競争力などとのからみで「拝外主義的ナショナリズム」が台頭している。政界の動向によっては、市民運動が偏狭なナショナリズムの波に流され覆い尽くされてしまう懸念もある。いま日本は、地に足を据え、情報洪水に惑わされずに、しっかりと思考する市民、自立した熟考する個人の出現を求めている。