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一般投稿欄

議論の論点は何か~9月19日付菅井さんの投稿に関連して

2012/9/30 樹々の緑

 菅井さんが9月19日付の高額所得者さんへの返答投稿において紹介されている7月22日付の記事は、産経政治部編集委員である高木桂一氏のコラム“高木桂一の『ここだけ』の話”の記事であり、菅井さんがリンクを貼られたページの次のページにある、その記事の末文は、

ただ、反原発の方向性は同じだとはいえ“過失”で中核派メンバーを持ち上げたことが、「大失態」であることは間違いない。これを教訓として「赤旗」が今後、中核派の活動を肯定的に取り上げることはなかろう。

と結ばれています。
 私も、この高木氏の評価には頷けるものを感じています。
 党を離れて20年、それ以前の党歴と同じくらいになりながら、現在でも末端で「赤旗」の配達・集金に「協力者」として携わっている人間の偽らざる実感として、そのように感じているのです。詳しく述べると、あれこれ差し障りが生じてしまいますので、これだけしか「根拠」を述べられないのが残念ですが…。

 もともと、この記事の菅井さんが紹介されている部分の前のページには、

 むろん日本共産党が中核派を「容認」したわけではないが、「赤旗」はなぜ、中核派2人を紙面に登場させたのか。打ち明けるのは赤旗関係者だ。

 「取材して書いた記者も編集幹部も2人の素性に気づかなかったの(ママ)ようだ。私も後で知って驚いた」

とあります。
 菅井さんは、リンクを特定のページのみに貼ることによって、この部分を故意にか、この欄の読者にまったく紹介されていません。その上で、

日本共産党広報部の説明はこうだ。「反原発で中核派と共闘しているわけではない。中核派は様々な組織、フロントを通じて活動に参加しており、一般人とは見分けがつかない。中核派だからといって排除していては、我が党の反原発運動自体が成り立たなくなる」というわけで、今回の椿事はなぜか党内では問題になっていないようだ。

という部分のみを紹介されて、

反原発運動という市民運動(シングルイシュー)に対する共産党(新聞赤旗)の姿勢はそれを積極的に報道、応援するということで一貫しようとしていると私は見ています。

というように、「日本共産党の態度変化(?)」が生じていると評価されているのでしょう。これは果たして、公正な態度でしょうか?

 私は、この場で自由闊達な議論が展開されることは、右転落した日本共産党の再生のために、非常に重要なことだとは思いますが、1年9か月前の「はと」さんとの議論においても指摘したように、議論の組み立てにおいては、最低でも自論の問題提起に自ら答えること、その根拠として自分の感想や評価を基礎とするだけでなく別の独立の資料を引用する場合には、その引用する諸資料について、資料の読み違えを隠して引用したりしないこと、が要求されると考えております。
 その点で、上述の菅井さんの「産経」記事の引用の仕方には、「資料の読み違え」ではないものの、記事全体の趣旨を無視して、ご自分の結論に都合がよい部分のみを引用するという、歪みを感じるのです。

 もちろん、菅井さんは、上記引用部分に続けてすぐに、

 念のためにいえば、共産党も中核派も、市民運動や個別課題ではなく、国政変革(昔からの用語で言えば、「革命」)を使命としている組織ですから、その水準では、両者は対立していて共闘などとんでもないということになるでしょう。

と述べられており、ご自分の評価が、「反原発運動というシングルイシューであれば、中核派の活動といえども『積極的に報道、応援する』」という限度に止まるものであって、高額所得者さんに対して「個別課題に限定すれば中核派とも共闘を認める」というところまで行っているわけではないと、弁明されています。

 おそらく、それはそのとおりでしょう。
 しかし問題は、そもそも菅井さんが「個別問題での共闘を認めるのではないものの、『積極的に報道、応援する』という、最近の日本共産党の姿勢は評価できる」という場合の、そのような「姿勢」が、本当に評価できるものなのかどうか、ではないでしょうか。  その意味で、むしろここでの問題は、いま私が引用した前ページ部分と次ページの末文の記述における評価を、なぜ否定できるのか、今回の「中核派活動家2名の写真入り、そのうち1名のインタビュー入記事を『日曜版』に掲載した」ことに対する日本共産党広報部のコメントが、自らの「大失態」を糊塗する苦し紛れの弁明などではなく(高木桂一氏は、むしろそのように見ているからこそ、末文のような評価になるわけです)、なぜ、菅井さんがいわれるような「市民運動(シングルイシュー)に対する共産党(新聞赤旗)の姿勢はそれを積極的に報道、応援するということで一貫しようとしている」ものであると論結できるのか、にあると思います。ですから、先の「歪み」を感じるのです。

 実は、菅井さんが肯定的に引用された「積極的に報道、応援する」という日本共産党広報部の姿勢の背後には、引用記事にもあるように、

「中核派だからといって排除していては、我が党の反原発運動自体が成り立たなくなる」

という態度があるのであり、まさにそれが問題の核心ではないでしょうか。
 ここに問わず語りに述べられているように、あくまで日本共産党の基準は「我が党の反原発運動が成り立つかどうか」にあります。おそらく菅井さんは、ご自分で引用した上記部分についても、そのような「読み」ができないのでしょう。これでは、議論は永遠に平行線のままです。

 しかし、もともとアルチザンさんは、本年7月28日付の「最近の日本共産党について-菅井良様へ」という投稿において、菅井さんが比較的肯定的に評価されている上記反原発運動への姿勢に関しても、

自分達が後からの場合は、先達の行為に対して謙虚な意思表示が必要であるし、ある意味そこへ参加させて貰っているのだと云う意識をきちんと持ち合わせ、赤旗誌上でも正確にこの組織について言及し、尚かつ、納得出来る範囲は協力を惜しまないスタイルを取るべきであると思います。組織としての私が、私が、という我は捨て去るべきであろうと思うのです。個の代表からなる、個々の自然発生的なものへの、組織化された団体のそれへの接触の仕方を間違い、その上この運動の主役は私達等と間違えた主義主張を表明すれば大事な民主主義運動を破壊しかねないことになってしまうのです。

と述べられて、後からノコノコとやって来たに過ぎないのに、自分たちの方が組織勢力が大きいことを(無意識の)背景として、「そこへ参加させて貰っている」という謙虚な意識に立てないことを問題とされていたはずです。
 そして、高額所得者さんも、9月10日付の投稿で、

昨年の3.11以後は、従来の主張に頬かむりして「脱原発路線」である。明らかな路線転換であるにもかかわらず、なんら方針転換に関する説明はない。

という点を指摘して、いわば、「自分の現在の主張が正しくさえあれば、従来の路線の変更に当る事態が介在していたとしても、その変更について口を噤む」態度の問題性を指摘されているのだと思います。
 たしかに、これはアルチザンさんがいわれた「謙虚さ」の問題ではなく、「誠実さ」の問題ですから、別の問題だと言えないこともありません。
 しかし、日本共産党の一連の「姿勢」の問題であることには違いはないと、私は考えています。(9月30日未明)