「ここまで落ちるか」とは、不破氏が筆坂氏に投げつけた言葉である。
この言葉が、そのまま党内から不破氏自身に降りかかるのも、今回の選挙結果
の多少の出来事などには関係なく、本格的に、時間の問題になって来た。
そこで気にかかるのは、一般党員の方々の、「その後」だ。
以前もここに書いたが、日本に限らず、共産主義に共鳴し、その運動に馳せ参
じる人々も、社会進歩にとって貴重な善意の人々だ。
多少の自己犠牲は厭わず、みんなが共同して、人間を大切にしあう社会をつく
ろうというのが、その初心の最大公約数だと思う。
だが、「自己完結してしまっている教義」を掲げる組織というのは、共産党に
限らず、どうしても「特定の個人」が頂点に立ってしまう。そうすると、必然的
に「教えを垂れる」、「教えに導かれる」という構造が、組織とその構成員の
「行動原理」となる。
誰もが、その段階まで自己を組み込んで行くには逡巡はあるものの、初心が清
廉潔白であればあるほど、それが推進力となり、「その行動原理と自己は一体で
あるべき」となる。
そうなると、「現実」というものの、その人にとっての「見え方」も、少しづ
つ、しかも大きく「変わって来る」ようになる。
「現実」は、多様な根を張り巡らしている「現実」ではなく、「教義」の「真
理性」や「絶対性」を「証明」するための「教材」となってしまう。
不破さんの「科学の目講座」が、志位さんの「報告」や「結語」が、まさにこ
れだ。
党員の方にとっては、嫌な言葉遣いかもしれないが、一種の「洗脳」であり、
「サブリミナル効果」を狙った手法を、彼らはこの数年、意図的に用いていると
思う。
減紙による中央の収入不足が続いていても、党員はなかなか赤旗収入を増やそ
うとしない。党員の大半を占める高齢者を、同本気で拡大に駆り立てるか。
“彼らが若かりし頃、大いに青年学生の運動が盛り上がっていた頃、彼らはマ
ルクスを語り、レーニンや綱領を論じ、その結果、党勢拡大も進んだ。古典・綱
領講座で、あの雰囲気を復活させよう、そうすれば拡大に動く可能性がある”
ところが、その意図が結果を制約する。
マルクスを、時空を超えて、今日の己が組織の利益=自己利益に結びつけて語
ろうとする欲が勝り、その結果、「講座としての質とレベル」が、過去のそれを
上回って、完全に時代適合不全を来たし、「語るに落ちてしまっている」という
ことに、彼らは気づかない。
70年代から数十年を経た現在は、社会も、個々人のレベルも、大きく進歩して
いるという現実が、彼らには、全く見えていない、見ようとしていない。
彼らにとってのマルクスは、夢よもう一度にすがりつく者の「三種の神器」
だ。(続)