芝田進午、
このひとを見よ
そこにあなたは
現代を生きた
いわば「救世」の実践的知識人を発見して
驚くかれるだろう。
芝田進午氏は、東京都新宿区戸山に住んでいた。近くには早稲田大学
や国立施設などのほかは住宅街である。その住宅地に、国立予防衛生研
究所が、品川区から唐突に移転を政府が決定して、強行移転した。
国立予防衛生研究所は、名称を国立感染症研究所に名前を変えた。略称
予研は、戦時中に満州で生体人体実験を行ったことを作家の森村誠一氏
が『悪魔の飽食』で告発したように、いわくつきの研究機関だった。
石井七三一細菌部隊は、戦争捕虜のロシア人、朝鮮人、中国人などの捕虜
を生きたまま細菌兵器開発のために「研究」した炭疽菌など幾多 の細菌を
直接注射して、その生体反応を験した。この事実は、敗戦後占領したアメ
リカ軍の知るところとなり、戦争犯罪などの対象となりかけた。しかし、
アメリカGHQと日本の当局とは、駆け引きを行い石井七三一部隊のすべ
ての実験研究データをアメリカ軍に引き渡すこととひきかえに戦争犯罪を
黙認することで決着をつけた。
石井部隊で研究に携わった医学者は、国立予防衛生研究所の創立に多く
関わった。その後、略称予研は、インフルエンザワクチンの開発など
数多く日本の保健衛生に関わってきた。しかし同時に生化学兵器の一環
ともいえる実験研究を続けてきた。
芝田さんらは、住宅密集地に住民の頭越しに危険な細菌実験の漏れがあり
うることを危惧して移転反対運動を開始し、強行移転後には、実験差し止
めを裁判に訴えて闘い続けた。
この予研=感染研裁判は、最高裁まで争われた。芝田氏は、第一審が東京
地裁で判決を言い渡す年の一月、胆管がんのためにご逝去された。
芝田氏を団長とする裁判の会は、団長亡き後にも、副団長の武藤徹さんを
団長として闘い続けた。最高裁で敗訴した後も、バイオハザード研究の会
や平和コンサートなど芝田氏と思いを同じくする多くの人々が後を継承し
ている。
芝田さんは、この闘争の間すべての学問的研究を中座して、この闘いそのも
のを科学的水準を高めて、バイオハザードに関する学問的実践的研究のため
に貢献した。生涯最後の闘争となったこの闘いは、生涯を実践を根本として
唯物論を研究し続けた芝田進午氏の最高水準の闘いであった。同時に、芝田
氏が人生の最後の時期に「人類生存の思想」を新たな現代的課題として重要
性をよびかけた思想そのものの一環でもあった。
*この文章をはじめ芝田進午氏に関連する拙文を以下の研究ノートにまとめ
ている。よろしければ、ぜひごらんいただきたい
『人類生存哲学の思想家芝田進午研究』
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