新聞に載った二つのエピソードから、衆議院での多数派政治について考えさせられた。エピソードの話題は、スポーツにおける高校運動部の体罰問題とオリンピック柔道における暴力・パワーハラスメント事件である。
北大教授の山口二郎氏は、五輪銀メダリストで柔道指導者の山口香筑波大准教授について紹介している。山口香氏は、女性柔道界の暴力とハラスメントを告発した現役選手を後ろから支えていた。あるインタビューで、スポーツの目的は強いものにもひるまない自立した人間になることと述べていた。山口二郎氏は、どのような立場でも、自分の目の前でおかしなことが行われていれば、それに対しておかしいと言い続けられるような人間を育てることこそ、教育の目的だという。山口香氏の勇気ある発言を山口二郎氏は讃えている。
一方、東京新聞は、2月10日の社会面で体罰に対する伊吹文明衆院議長の容認発言を報道している。岐阜市内で開かれた自民党県連の政治塾で「体罰を全く否定し て教育なんかはできない」と述べ、スポーツ指導や教育現場での体罰を一部容認した。政治家を目指す塾生ら23人の前で講演した後、女性柔道の暴力問題をめぐる質問に答えた。
「この頃は少しそんな体罰をやると、父親、母親が学校に怒鳴り込んでくるというが、父母がどの程度の愛情を子に持っているのか」と、保護者の対応を批判した。
さらに、イギリスのエリートを育てる私立校では教師がむちを持っていると説明。日本では「何のために体罰を加えるのかという原点がしっかりしていないから問題になる。立派な人間、選手になってほしいという愛情を持って体罰を加えているのかが判然としない人が多すぎる」と語った。伊吹氏は、2006年9月から2007年9月まで第一次安倍内閣で文 部科学相を務めた。衆院議長に就任し、自民党会派を離れて無所属扱となっている。
山口香氏の発言と伊吹文明氏の発言を比べて、読者諸氏はどうお考えになられるだろうか。伊吹氏は、文科相も務めたことのある国権の最高機関の議長である。全柔連や日本オリンピック委員会を指導するのが、文科省の立場である。伊吹氏は、「いま」無所属だが、講演は自民党県連の政治塾であるし、今も文科省に影響力がある。
私は学生の時に、中村敏雄氏の『スポーツの社会学』を教科書に講義を受けた。スポーツは古代からスポーツそのものの意義とともに、スポーツが階級性を帯びてきた歴史であることを学んだ。近代スポーツでは、国家主義の影響を色濃く刻印されてきた。スポーツの階級性とナショナリズム発揚の道具。にもかかわらず、スポーツは人間を解放する意義もある。
伊吹 氏は、資本家階級やナショナリズムの政治的代弁者である。いわばエリート階層における体罰は、エリート階層を育てる上で確固とした役割と意義をもつことを指摘している。それに比して、一般の庶民や労働者・勤労者階層において、体罰や暴力は、支配階層から「搾取」や「疎外」を経済的社会的頂点にたえず味わわせられてきた反人権行為なのである。
体罰そのものに「階級性」が刻印されている。スポーツが国威発揚の政治的道具として、国家宣伝の格好の舞台となるオリンピックで、優勝準優勝を獲得することを至上命題とした監督コーチ層に強いプレッシャーで有り続けたことは間違いあるまい。しかし暴力やハラスメントは明確な人権侵害行為である。山口香氏は、スポーツの本来の意義を適切に把握している。しかも暴力やハラスメントに屈服しない民主的感覚をもっている。なによりも多数派が実権を握っているなかで、多数派の間違いを正す勇気ある信念をももっている。 実に対照的な伊吹衆院議長と山口香氏の言動である。おりあらば23人の告発した女性柔道選手の足を引っ張る策動はマスコミ・週刊誌を舞台に今後あらわれるかも知れない。けれど23選手と彼らを勇気づけた山口香氏は、異端、少数派と見なされがちなスポーツ界に、多数派=体制の間違いや腐敗を告発してただした勇気ある人々である。
中学、高校、大学の運動部の暴力行為は、戦前から存在してきた。一部の右翼的体質は学園闘争が激しかった頃に、左翼学生に対して大学側の安全弁として、左翼学生の暴力を封じ込めるためにより攻撃的で徹底した暴力を行使した。今回吹き出た暴力体質は、日本の学園がもつ歴史的な運動部の暴力体質を容認して甘やかしてきた歴史性を帯びたものである。さらに、日本軍隊は内部の徹底した暴力集団と化していた。様々な階層から構成された軍隊内で秩序の統一は、階級や年期に基づくピラミッド構成に基づいていた。容赦ない軍隊内部の暴力が、危険な戦闘下での苦楽を共にした「同じ釜の飯を食った同期の桜」と後になって思い出されても、それは転倒した錯誤である。
伊吹議長が講演で発 言した要旨が一面的にあてはまると思える要素はあろう。ただ「愛のむち」なるものは、暴力や体罰を奮う者の自己満足であることが多い。体罰や暴力で精神的なトラウマを受けた子弟の存在を考えると、教師側の一方的自己満足に過ぎないとしたら、暴力や体罰を受けた学生側子ども側のさまざまな否定的刻印をどう回復しえるかを考えるべきである。また、運動部が暴力化した場合でも、さらにそれ以上の強権的な体罰や暴力の行使は、暴力の連鎖を拡大する場合もあり得る。
スポーツを素材として考察してきたが、いかに多数派集団が権力を握っても、それを告発しうる勇気の持ち主がいれば、政治の暴走もとめうる。衆院の三分の二を握った自民・公明与党とそれに追随する維新の会やみんなの党などの勢力が、新自由主義、新国家主義に基づく反民主政治を実行しても、国会でそれをきちんと告発し説得力のある発言を行えば、多数派の暴走は国民に目に見える。現在の少数派である日本共産党や社民党が、絶えず自己革新しつつ、国民の声を貫く勇気があるか。党内部での異論にも耳を貸して党の内外に開かれた心の政治行為を持続する勇気をもつことができるか。それが保証されて、はじめて少数派政党の勇気が国政を刷新する基盤となる。
勇気ある少数派の尊重は 、政党の内外においてなされるべきである。そんなことをいま話題となっているスポーツ界の問題を通して感じた次第である。