私の学生時代、青木書店から出版されていた季刊の思想哲学誌『現代と思想』
は、生き方と学問の素材が輝く宝庫だった。その中で強い印象に残った執筆者の
ひとりが鈴木正氏だった。全四〇巻の中で、「座談会ー革命家のプロフィルー岩
田義道の生と死ー」(第十五号)で古在由重・村井康男・加藤義信・鈴木正の四
氏が対談している。十九号で、「岩田義道論」を、二八号では「主題としての文
化の革命」をそれぞれ論じている。一九七〇年代の十年間に三回登場した鈴木氏
は、大学生の私をとらえて離さぬ魅力をもっていた。鈴木氏の言論に感銘を受け
て、以降氏の著作を店頭で見つけると購読したり、図書館で借りたりして読み続
けてきた。
その後社会人となってから、私が書いた文章や掲載誌、 掲載誌コピーを送る
と、鈴木氏も論文や掲載誌のコピー、ご著作などを送ってくださった。誠実な実
践家であった鈴木氏は、教師をしながら社会的実践によってレッドパージを受け
るばかりか健康面でも過労がたたって肺結核に罹患して手術を受け、静養につと
め、肺結核療養所での暮らしを送ることとなる。療養所内で鈴木氏は、思想史学
研究に没頭して読書に集中されて、その中から第二の開眼をなされる。思想の科
学研究会との出会いである。
鈴木氏は、唯物論研究協会と思想の科学研究会の両方の会員だった。思想の科学
研究会のシンポジウムがあると、名古屋から上京し、私も誘ってくださり会場に
ご一緒した。今年二〇一三年一月に、鈴木氏はご著作『倚りかからぬ思想』を贈
呈してくださった。読了 した最後に「店じまいーあとがきにかえて」を読み、
私は(あっ!)と驚いた。そこには、最後に「私にとって、これが最後のエッ
セー集です。」と綴られていたからだ。『倚りかからぬ思想』という書物の表題
は茨木のり子の詩集『倚りかからず』の精神と同一の地平にあるだろう。思想史
研究の師と仰ぐ鈴木氏の著作を、読み深めたいと強く思った。
第一章 思想としての多元主義
鈴木氏は、どのような視点から思想的価値としての多元主義を描き出そうとし
たか。鈴木氏は、思想の科学研究会が堅持してきた多元主義(プルーラリズム)
から恒常的に学び吸収している。思想家として第一章で取り上げられているの
は、安藤昌益と長い沈黙の歴史から見事に発掘した狩野亨吉、丸山眞男、グラム
シの名前である。
グラムシは、ソ連の共産党を頂点とするコミンテルンとともに功罪備えて二〇
世紀に君臨したスターリン体制がやがて矛盾を拡大させていった時に、社会主義
ルネッサンスの政治思想家として現れた。日本でも、グラムシは「構造改革派」
と外部から呼ばれる知識人グループによって紹介されて、「機動戦から陣地戦
へ」と明確に伝えられた。それは アメリカの機械制大工業が「フォーディズ
ム」と呼ばれる資本主義的大工業へと変貌して現場ラインと指揮監督管理労働と
してのスタッフと分化される段階で、新たな労働運動を構築させる理論的基礎と
して、今までの社会主義論に飽きたらぬ労働者、民衆や知識人たちから歓迎された。
鈴木氏は思想としての多元主義として、さらに丸山眞男を取り上げている。私
は手元にある九冊の鈴木正の著作を眺めて驚いた。鈴木氏の著作で、この『倚り
かからぬ思想』以外では、一九九三年に出版された『日本近現代思想の諸相』所
収の「バランス感覚の鮮やかさ 丸山眞男著『戦中と戦後の間 1936~1957』一九七六年』だけであったからだ。それがこの著作では、
第一章に「作品としての思想史ー丸山眞男 の「内村鑑三と『非戦』の論理」を
めぐって」(二〇〇九年)「忠誠から反逆へと転ずる機ー丸山眞男の予言」(二
〇一〇年)「雑感・自己内対話と多元主義」(二〇一一年)「丸山眞男 対比的
に」(二〇一一年)の四編が収められている。第四章に入っている「真価が宿っ
ている二つのコレクション・・・『丸山眞男コレクション』『藤田省三コレク
ション』」(二〇一〇年)も含めると、一冊の中でこれだけ丸山眞男論を展開し
ている。三〇年ほどの間に、鈴木氏の中に生じた変化のゆえであろうか?丸山眞
男が戦後思想界にあって歩んだ軌跡がもたらした結果だろうか?岩波文庫版の吉
野源三郎『君たちはどう生きるか』に、東京帝国大学を卒業して助手だった頃に
これを読んだ丸山眞男がどれほど感動とと もに受けとめたかを記す追悼と思想
豊かな文章が収められている。鈴木氏は、丸山眞男の「自己内対話」と多元主義
の関係についても述べている。鶴見俊輔らが多元主義に対して示した言動は、や
がて鶴見氏ら九人が提唱した「憲法九条の会」へと連なる。
私には、「"時代おくれ"の先回り」という文章が注目を引いた。以下に断片的
に引用する。
ケイタイも持たないで外出する私は公衆電話を探して連絡する。パソコンをやら ずにインターネットでなく新聞・雑誌から情報を得ている活字人間である。こん な時代錯誤の人間ばかりになってしまったら、社会は退化して日本は国際競争力 を失い世界の劣等生に落後してしまうだろう。だが少数であれ、こんな人間の生 きられない世の中も窮屈で伝統も無に帰し てしまうほかはない。/見事な社会分析と見通しである。日常性から始まり日常性に回帰する多元主義 思想のかたちがくっきりと述べられている。思想を理論的レベルや学問的レベル でのみならず、生活の次元でわかりやすく具体的に展開している。それも鈴木正 氏における「思想の多元主義」の特質のひとつである。
起きてしまった三・一一以後、われわれはどうしたらよいか。これまでの生活の スタイルを基本的に変えないと、日本は駄目になってしまうと真剣に深刻に考え る人間が確実に増えてきた。/
私の友人は、これまで日本の中で最も苦しい環境を強いられて、しかも活き活き と生きてきたアイヌと沖縄の精神文化に学べという。/
リーマン・ショック以後三〇代の「うつ」がまん延している。その原因にIT化 などで社内のコミュニケーションが希薄化して孤立し、しかも仕事で認められた い完璧主義があるという。
これと正反対の方向へ生活を切り換えるには、”時代おくれ”の人間が社会に生き ていて、ときに先端技術と矛盾してブレーキをかけるほうが健全ではなかろう か。そ れをオクレテイルと、一元的に軽蔑する眼のほうが病的ではないだろう か。/
老世代と新世代、健常者と障害者、情報機器の精通者と未熟者などなど、感覚が ちがって違和感をもちながらも、助け合うかかわりが大切だ。社会的弱者が差別 されることのない人権の行使が活き活きと機能する世の中を私は期待している。
第二章 世界の〈歴史〉を直視せよ
鈴木正氏は、中国の研究者との共同の仕事に前向きに取り組んでこられた。王
守華と二人で編集した『戦後日本の哲学者』(農文協刊 一九九五年)では、和
辻哲郎、中井正一、古在由重、高桑純夫、竹内良知、鶴見俊輔らの哲学者を日本
の執筆者三人(鈴木正・堀孝彦・吉田傑俊)、中国の執筆者三人(王守華・李今
山・卞崇道)で分担して担当して出版している。日本では農文協から、中国では
山東人民出版社から同時出版している。『近代日本の哲学者』(中文版『日本近
代十大哲学家』)もそれに先だって出版されている。さらには『安藤昌益 日
本・中国共同研究』(農文協)も日中の研究者の協同作業である。日中安藤昌益
シンポジウム開催にも力を注い でいる。
ノーベル平和賞を受賞した劉暁波をテーマに「官権マルクス主義への抵抗の象
徴ー民衆から仮託される英雄崇拝・毛沢東伝説のゆくえ」「天安門事件と劉暁波
への想い-「08憲章」と日本」「「文字の獄」への抵抗ー劉暁波の弁論を読ん
で」「劉暁波への平和賞が示唆するところ」の四つの論文を掲載している。
中国民主化を訴えた天安門に集った武器なき青年、学生たちを中国「人民解放
軍」は銃撃して弾圧した。一九八九年六月四日のことである。外国で学者として
教育と文筆に携わっていた劉暁波は、アメリカから帰国して学生の民主化運動に
参加する道を選択した。それが理由で劉暁波は、中国政府・中国共産党から「反
革命宣伝扇動罪」に問われ投獄された。鈴木氏は、劉暁波に「知識人 」の姿を
見る。書物において鈴木氏はJ・P・サルトルの言説を援用する。「かつてJ・
P・サルトルは学者・研究者と知識人を区別し、知識人とは社会の不正や不合理
に抗する意識をもって知識を活用して行動する存在だといって擁護したことがあ
る」。
今まで中国の思想と文化に協同し続けてきた鈴木氏にとって、中国知識人のす
ばらしさや卓越さがわかるからこそ、今の中国政府と劉暁波ら知識人や学生・青
年たちの緊張関係に深い関心を払っている。劉暁波らは、弾圧側の政策に対して
も公平な目を失わぬ態度を堅持しているという。「劉が待望しているのはイデオ
ロギー的強制で汚れた「人民中国」でなく「自由中国」である」という文章は、
思想家の慧眼である。今の世界の現時点を見つめる思想史 家の「眼」がある。
鈴木氏は、「いまや親中の私でさえ、中共とその政府は観察と批判の対象になっ
た。魯迅が求めた内部からの自己浄化による創造的な回心と民主の革命の機が熟
しはじめた。私にはそんな気がしてならない」と結ぶ。中国をめぐる国際情勢
は、アメリカとの国際的な諸国家をまきこんでの対峙関係にある。世界に覇権を
続けようとするアメリカを、世界史的な人権と平和の課題を引き受けて、中国が
立ち向かうことができるだろうか?もしそれが可能ならば、それは劉暁波らのよ
うな人類史の課題によって国内を幸福にしようとする人々が中国の主体的存在の
位置に座する時であるかも知れない。鈴木氏は劉暁波と同じ地点に立つ者とし
て、伊藤博文を暗殺した安重根を研究している。彼が獄中で 執筆した未完の遺
著『東洋平和論』に、鈴木氏は同じアジアの平和と民族の自立をめざす義士の思
想を発見している。一九一〇年三月二六日に安重根は絞首刑に処された。韓国併
合に関する「日韓条約」は一九一〇年八月二二日に調印された。だが、韓国の日
本による植民地化はその数年前から公然と強行されていたことを、鈴木氏は日本
人はしっかりと認識すべきだと述べている。
鈴木氏は、憲法を活かす抵抗権以前に、天皇自身を含む統治権力者自身が、憲
法を守ることを誓った事実を述べている。田中正造は足尾の鉱毒と闘い被害民を
救うために、明治天皇といっしょにつくった憲法を駆使して銅山の操業停止まで
要求した点である。天皇と一緒につくったという象徴的な言い方の中に、時の政
府を向こう にまわして一歩も引かない闘志が伝わってくる、と鈴木氏は述べて
いる。さらに平成の現在、安倍首相が第一次任期中、改憲を果たすと高慢にも見
栄を切ったことに比べて、鳩山由起夫元総理の答弁を紹介して、立派だと述べて
いる。朝日新聞二〇一〇年一月二十日の記事である。
「尾辻・自民党参院議員会長は、(鳩山)首相がかつて憲法改正を主張したこと
を踏まえて、首相の考えをただした。首相は『首相には特に重い憲法尊重擁護義
務が課せられている。今、私の考え方を申しあげるべきではないし、在任中にな
どと考えるべきものでもない』と述べ、首相として主導する考えがないことを明
らかにした」。鈴木氏は鳩山氏が首相に重い義務が課せられていると憲法九九条
を忠実に認識している点を高く評 価している。
また自民党の野中広務元幹事長の「保守」の捉え方を取り上げている。
「保守が守るべきものは、平和であり、国民の中流階級化することでしょう」
「アジアの傷跡の修復と信頼関係の構築こそ、真の保守の課題だろう」。
鳩山や野中の言葉に共感をもつ鈴木氏は、戦争の加害者と被害者の信頼の回復
には、平和の長い維持と保守が大切なことを、戦争を体験した世代が亡くなって
いく今こそ訴えたい、と述べている。
「政府の中であれ、民間在野であれ、党派の名にとらわれず、いろんなところに
味方を見つけ、コトバで合理化するリクツよりも、互いに情(平和の感情)を通
じたいのである」と。
戦後になり、当時十八才だった鈴木氏は、師範学校で中井正一・真下信一・新
村 猛らの「世界文化」の文化的抵抗を知った。レッドパージによる失業のあと
の結核の療養中に、中井正一を読み漁り、「集団的主体の論理」という中井正一
論を書き上げた。その過程で戦前の「世界文化」と戦後の「思想の科学」の連続
性を感じて、「思想の科学研究会」に入会する。中井正一は、「日本人民の自由
解放の闘いが倒したものではないから、天皇制によってつちかわれた日本人の意
識はそのまま残っている.意識革命のともなわない民主主義は、あてにならな
い」と山代巴に語った。また山代巴は、武谷三男の「理論は何らかの形で現実に
ふれねば実践的とはいえない」という言葉を支持している。鈴木氏もまともな戦
後の学問と活動は、理論は実践的、実践は理論的で相互に通じていたし、その傾
向 が「思想の科学」の思想でも同じことが魅力的だったと述べている。それ
は、日本の中にある世界へと広がった思想の日常化に、鈴木氏が開かれた心で取
り組んでいかれた思想形成の過程を示すものと言えよう。
大学の同僚が、鈴木氏に雑誌『公衆衛生』誌に掲載されている「憲法九条の大
切さ-戦争は最大の公衆衛生問題」をコピーして渡してくれた。その著者が日野
原重明である。日野原の重要な啓示とも言える至言を鈴木氏は感銘をもって受け
とめる。
「戦争は最大の環境破壊である。」「不戦は、積極的に敵と戦うことはやらない という意味である。非戦は、殺し合うこと自体を非人道的なものと考える立場で ある。」「日本は自衛隊をやめ、二〇歳以上の男子は、高校や大学などの最終学 歴を終えた ら、六カ月から一年は国内外での奉仕活動を義務化したらいかがだ ろうか。これによって難民救済、災害派遣、発展途上国での技術的援助、医療活 動などがなされるのである。」「今の私の心境から憲法の改正案への激しい抵抗 心以外に、九条の文章をさらに徹底した戦争放棄に改め、軍隊となりつつある自 衛隊の名称を変えて,『ボランティア隊』として外国に送り込み、難民などのた めに活動してもらいたい。」
このような日野原重明の言葉に鈴木氏は、学者はとかく観察的・傍観的な文章を
書く習性にたけていたが、氏は断然違うとみなしている。さらに日野原は「アメ
リカがイラクにとった九・一一テロ後のイラクへのアメリカ大統領ブッシュの行
動を、カントが知れば、ひどく非難するでしょう。」と述 べている。鈴木氏
は、このような古典の読み方こそ、古典と現代を寛恕の精神で結んだ警世の言葉
であると見ている。古典が書かれた時代と今日を貫いて歴史的真実を把握してい
る点で、百歳をこえる日野原から鈴木氏は、歴史を継承する営みを継承している。
鈴木氏は、辻井喬の発言に共鳴を抱く。辻井は「保守の中にも革新的な人がお
り、革新の中にもほ保守的な人もいる。あれかこれかのデジタル思考ではダメ
だ。」と言う。また「日米安保条約は変わるべきです。国の安全は大事です。中
国や韓国も入った真の安全保障を考えるべきだと想います。」とも言う。これら
の発言を承けて、鈴木氏は考える。
「資本主義社会の未来は資本主義経済の修正を通じて、革命家グラムシのいった
ように生命力を さらに拡充する可能性が大いに考えられる。それならばその中
で生活しているわれわれ人民は善玉をうけつぎ権力悪に対する抵抗力を一層強化
するため、冷静な観察力、賢明な判断力、機を失しない行動力を身につけなけれ
ばならない。そうしないと悪玉のスターリン型社会主義を再現させてしまう。
「悠々社会主義」が最も嫌うところである。持久戦だ。耐えて実質を手に入れよ
う。」と。
革命の世紀二〇世紀を経たにもかかわらず、ソ連や中国、東ヨーロッパの社会
主義の盛衰を見てきた鈴木氏は、それでも社会主義の歴史的意義を見失わずに
「悠々社会主義」という概念を措定する。この言葉の本質に、歴史を貫徹して鈴
木氏が構想する社会像のリアルな理想が込められている。
沖縄県の「琉球新報 」は、「琉球タイムズ」とともに、沖縄県から全国に発
信する有力な地方紙である。鈴木氏は、「琉球新報」の政治部長松元剛の講演
「普天間問題が問う民主主義の塾度-安保の二重基準を超えて」を紹介してい
る。松元氏の講演を聴いていた鈴木氏は、沖縄国際大学にヘリコプターが墜落し
た事件、宜野湾市の危険な消火活動によって鎮火した後を米軍が現場を包囲し実
況検分も写真撮影も拒否した事件、三人の米兵が日本人女性を強姦して二人はア
メリカに逃亡した事件などを沈痛な気持ちとともに聴く。地元警察は怒っている
のに、警察庁や外務省の上層部は追及を妨げている。鈴木氏は、怒りとともに
「支配者は裏切る」という言葉を思い出す。「憲法九条改憲阻止と沖縄基地反対
闘争」という課題の重みと 複雑な経路について、この課題をこなすのには、尾
崎秀實ほどの構想力がないと解けないと述べている。尾崎秀實は、日本共産党員
ではなくコミンテルンの一員だった。政府中枢にまで入り込みつつ侵略戦争を終
結させ、平和を実現させるために活躍した。日本人の共産主義者として唯一日本
国内で死刑に処された勇気ある革命家だった。権力中枢で反戦活動を行ったこと
で「スパイ」呼ばわりされ、家族や親族も世間の冷たい仕打ちや視線にさらされ
た。実弟の尾崎秀樹はすぐれた知識人として表現活動のなかで兄の名誉回復を訴
えてきた。自民党首相佐藤栄作は、アメリカ大統領ニクソンとの交渉で沖縄返還
と引き替えに、米軍基地付き核兵器密約を交換した。この極秘情報は、勇気ある
ジャーナリスト毎日新聞 西山太吉記者によって暴露された。しかし、権力は徹
底的に西山記者の個人的問題を大々的にマスコミを使って暴露させて問題を醜悪
なまでに見事にすり替え、問題の本質を隠蔽した。このことは長く沖縄県民を筆
頭に国民に苦痛を与え続けている。
第三章 試練の中の知・情・意
この章は、五つのテーマから成る。厳しい権力的弾圧や困難な情勢のなかで、
平和と民衆の幸福とを実現する上で、鈴木氏は大切ないくつかの提案をされている。
その一 大衆文化と左翼の関係はほぼ戦後断種的だった。大衆文化のさまざま
なジャンルである歌謡曲、講談、落語、漫才、田舎芝居、紙芝居など。鈴木氏は
自らを振り返り、敗戦後にマルクス主義の洗礼を受け左翼的政治青年となった自
分が、大衆文化をバカにしてきたことを告白する。大衆文化圏を含めて文化の自
立が政治的利用主義でおろさそかにされた傾向を自ら批判している。さらに、大
衆文化に通っている人情こそ大衆文化の「血液」とする。理屈で相手を打ち負か
して敵を増やすよりも、 人情で付き合う庶民の方がすぐれていることを、母を
慈しみながら人生の半ば以降に「あとで知った」とふりかえっている。上からの
啓蒙活動の主力だった文化運動に比べ、生活的に自立した大衆にとって恩着せが
ましい保護や防衛など迷惑で余計なお世話だ、と手厳しく述べている。おだやか
で温厚な鈴木氏と何回も会ってお話したことのある私には、この厳しさは意外
だった。おそらく若い頃に教師をしながら、左翼運動に取り組んできた鈴木氏だ
からこそ自らの自己批判をこめて、その「誤謬」と思える実態を根底的に批判し
ているのであろう。
大衆文化とインテリ文化、自立的文化と「啓蒙的」「政治実用主義」文化。こ
れらに考察をめぐらした鈴木氏は、作品の善し悪しを数の論理で評価してしまっ
て いる実態をつく。視聴率、販売数など。少数者は異端視される。それが技術
の活用力の領域にとどまっているうちはまだしも、思想信条の分野で多数が正し
く少数は間違っているとなり、権力的強制が加わると、問題は深刻な様相を呈す
る。最高裁判決は多数の裁判官の意向により、「君が代起立」の判決を問題なし
とした。ただひとり宮川光治判事が反対意見を述べた。
「憲法は少数者の思想、良心を多数者のそれと等しく尊重し、その思想、良心の
核心に反する行為を強制することを許容していない。今回の判決は、起立斉唱行
為を一般的、客観的な視点で評価している。およそ精神的自由権に属する問題を
多数者の観点からのみ考えることは相当ではない。一九九九年の国旗・国家法の
施行後、都立高校にお いて、一部の教職員に不起立不斉唱があっても式典は支
障なく進行していた。こうした事態を、起立斉唱を義務付けた二〇〇三年の通達
は一変させた。卒業式に都職員を派遣し監視していることや処分状況を見ると、
通達は式典の円滑な進行を図る価値中立的な意図ではなく、前記歴史観(「日の
丸」「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルと見る)を持つ教
職員を念頭に置き、その歴史観に対する否定的評価を背景に、不利益処分をもっ
て、その歴史観に反する行為を強制することにある。」と。
鈴木氏は、この裁判問題を大衆文化の加害的側面に目を向けて紹介している。
権力におもねる「大衆文化」と反対に、暮らしの中での癒し効果を持つ個人の
「ひいき」という形で民衆をつなぐ大衆 文化とは区別すべきとしている。その
根拠として、まともな後者をバカにした左翼の亜インテリ性が少数者から多数者
へと平和的に移行する契機をつぶしてしまったことを述べている。この節の最後
に、鈴木氏は言う。「私の思想文化(具体的には思想史研究)は、真理と真情を
一つにした主体性の性格を保っていきたい」。と。
その二 愛知県内唯一の旧制大学として発足した私立の愛知大学の愛大事件に触
れている。敗戦による引き揚げで上海にあった東亜同文書院大学を中心に、京城
大学、台北大学などの教師等が苦難に抗して作り上げた個性ある大学だった。当
時東大ではポポロ事件が、早稲田大学でも同様な事件が起きていた。一九五二年
のことである。愛大学内に特審局さしがねの警察官二名が大学校内に無断で不法
侵入し、学生に捕まった。この事件は、本間学長が、一九五二年六月十日に国会
衆議院行政監察特別委員会に証言を求められるに至った。
「特審局がその学校でスパイに使う。こういう問題は学校の教育から見ると非常 に困った問題です。学生に対してスパイをすることははずかしいことであると、 われわれは 訓育しているのに国費をもって誘惑してそういうものを出すような ことは、私は教育の立場にあるものとして非常に困っておる。のみならず学校内 において学生相互に信頼心がなくなる」。
本間学長の証言はこれだけにとどまらない。堂々と学長として、大学に対して権
力からの試練にむかって闘っている。同時期に東大でも、矢内原忠雄学長が参議
院法務・文部合同委員会が証言をおこなっている。本間、矢内原両人ともに、学
問の自治と大学の自立を堂々と主張して屈していない。大学の大衆化が進んだ一
九七〇年前後の大学闘争は、この頃と大学の実態を異にしている。学生も大学教
職員も、闘争の変化を見落として一概にくくれないけれども、鈴木氏が紹介した
当時の本間学長たちの証言を歴史に学び発掘 して範としなければならないと私
は考える。
その三 安藤昌益の思想をとりあげている。私も学生時代に、狩野享吉と渡辺大
涛を媒介として安藤昌益の存在を知った。ただ岩波新書の『忘れられた思想家』
によって広く安藤昌益を紹介したE・H・ノーマンについても、日本思想史と若
干の範疇をはずれるが触れてほしいとふと思った。しかしながら、鈴木氏は、狩
野の研究に即して省益の「互性活真」思想など現代の社会に即して思考を展開さ
れている。『自然真営道』を読んでいない私は、江戸期の思想家と向かい合う明
治や現代の思想家たちの研究に憧憬の念をもつ。昌益の『自然真営道』『統道真
伝』の読破は私の宿題である。
その四 三・一一を境に、鈴木氏の思想に変化が生じた。憲法九条を守ることを
最優先と考えてきた鈴木氏は、対外的には、国権の発動としての戦争反対の徹底
と、国内的には住民の日常生活の安全の二つが表裏一体の課題として迫ってきた
と記している。
ここで鈴木氏は重要な事実を記している。核兵器に対する判断と行動は、鈴木
氏は迅速果断であった。一九五四年のビキニ環礁での第五福竜丸がアメリカの核
実験で被曝すると、中野、杉並の主婦から始まった原水爆廃絶の署名運動は全国
から全世界へと広がり、ストックホルムアピールへと結実した。その二年後の一
九五六年に原子力平和利用博覧会が京都、大阪、広島で行われた。森滝市郎を理
事長とする被団協は開催反対を申し入れたが、当時の 広島市長は開会式で歓迎
のあいさつをしている。朝日の編集委員は「原子力の平和利用」が「原爆許すま
じ」の別の表現ではなかろうか、とまで記している。原発は、開発の初期から正
しい認識を国民から得られなかった。進歩的新聞もそうだし、鈴木氏自らもそう
だったという趣旨の文を記している。それは福島原発後に社民党のような明確な
原発反対を表明しえずあいまいだった日本共産党も私はそうだったと推測してい
る。脱原発一〇〇〇万人アクション行動の発起人となった大江健三郎氏たちを中
心とする運動が動き出して、その途中から「原発即時ゼロ」を共産党は打ち出し
た。これは、日本で原発が開発された時に、「原子力の安全利用」をめぐる進歩
派や左翼の間で、原子力は資本主義の枠内でなく完 璧な安全的利用を行社会主
義・共産主義の体制下では夢のようなエネルギー開発となるという固定観念が
あったと私は思う。日本共産党は、ちぐはぐな経路を経ながらも、原発ゼロを打
ち出してそれ以降の反原発運動に取り組んでいる。
その五 なぜ崔承喜さんという日本や中国で戦前に活躍した「東洋の舞姫」につ
いて言い及んでいるか?一流の舞踊家が世の中の変化に翻弄されていく。鈴木氏
は、芸術や芸能、文化について丁寧に研究成果をもとに持論を展開されている。
その末に、最終部分にこう記している。
「スターリン時代から、ミーチンとか、ジュダーノフといった政治の奴卑となっ た「文化的」党官僚が、哲学や音楽にあれこれ干渉したことはソ連「社会帝国主 義国家」のもっとも政治的犯罪行為 だったことを忘れてはならない。歴史を学 ぶということは、そういうことだ」。
第四章 思想ーその格闘の跡を読む
ここでは十四の書評が収められている。すでに詳細を記す紙数は尽きたけれ
ど、書物を読む行為に、思想的営為をこめている鈴木正氏の真骨頂ともいえよう。
洋の東西を問わず、鈴木氏は、「格闘を読む」という方法で読みとっている。
思想とは、思想的格闘そのものを示しているという鈴木氏の視点は、生きた思想
を「文献」「ペーパー」として枠組みの中に固定化して、専門的難解な言葉でし
ばりつけるわが国の学会や学界のレベルとは異なる。古在由重が遺した言葉、
「思想は冷凍保存できない。」が鮮明に想い出される。
鈴木正氏が研究され執筆されたたくさんの書物は、戦後日本の思想史学におい
て、重要な成果である。なによりも「自ら思想す る」という鈴木氏の思想の中
枢を究め続けた特質が見事に思想史研究に生きている。
鈴木氏は、真理を追究する学問や左翼が、歴史を推進してきた無告の民衆の真
情とが統一的に把握された時に、日本人は自らの思想を獲得して社会の変革をも
成就しうることを明らかにしている。
この精神は、日本社会で暮らす人々にとって、日常的にも励みとなる。これか
らも鈴木氏の著作を読み続けていくと共に、鈴木氏の思想史学を学び続けていこ
うと強く感じている。