投稿する トップページ ヘルプ

一般投稿欄

反動を目の当たりにしての雑感

2013/8/10 佐井 健

 「国民の基本的人権ほど気障り耳障りで邪魔なものはない」というのが歴代の自民党の一貫した思いである。だから彼らは裁判所人事権を振りかざして、憲法とは相入れるはずのない悪しき「判例」をいくつも積み上げて来た。
 経団連を中核とした財界も、基本的人権、国民主権を前提とした立憲主義が、どうにもイタシカユシであるために、様々に「日本経済事情」の屁理屈を、御用学者や「専門研究家」を使ってコネ回わし、労働基本権のなし崩しと賃下げに、自民党と手を携えて来た。
 この20数年来、ソ連・東欧の崩壊で、あたかも被統治者にとっては民主主義の高嶺の花かのように偽って宣伝されて来た「レーニン型社会主義・共産主義」が地球規模で破綻し、欧米や日本の多くの人々に、理念がどうあれ中央集権独裁は、やはり権力者のとめどない腐敗を産まざるを得ないことを嫌というほど再認識させたが、それらが、これもまた自民党や財界などに、ここぞとばかりに利用されて、資本の原理主義合理化への踏み台にされてしまった。
 一方では、未だ残党によって進行中の、北朝鮮や中国などの一党独裁による強圧的外交が、「非戦日本のテイタラク」=「現行憲法 足カセ論」の格好の材料にされ、ひいては、それが国内においての「イジメ」や「モンスターペアレンツ」に直結されるに及んで、今や「自由と人権の行き過ぎ危険論」とセットになって、派兵しかねない強武装と人権の制約を柱とした自民党案による改憲の道を整備している有様だ。
 そして今や政府財界は、マスコミを総動員して「親の世代と子供の世代の経済的利害対立」を煽り、「社会保障制度」の根こそぎ撤去につながるプログラムを、臆面もなく国民に提示するという局面にまで踏み込み始めた。
 親子の関係では、別居だろうが同居だろうが、人非人の親や子でもない限り、とどのつまりは「財布は一つ」なのだ。
 学歴マアマア、見た目ソコソコの女性キャスターに、サワヤカ憂い顔で「高齢者だけが手厚くては、若者は将来不安ですねぇ」などとシタリ顔で喋らせ続けている財界メカケのマスメディア「なべつね軍団」は、道徳と理性、人の持つべき知性の最低ラインをハッキリと割り込み始めている。
 読売の「委員会」、朝日の「タックル」、その他も言うに及ばず、今や、「ヘイト元祖」の「強権提灯カツギ」だらけだ。
 期待だけ振りまいて、結果的に自民型官僚政治に収束して見せた民主党政権は、20数年前から国民の一部に生息し始めた「期待を裏切られ続けたゆえの反革新」(=かつてその少なくない部分が「ヒーロー依存型 人まかせの革新支持層」)の増大に火を点けつけたことで、これを急拡大させてしまった。
 これでは、「委員会」,「タックル」などの番組の観客席に鎮座して、「こうなったら私も勝ち馬志向」の人々の「ヒトラー賛美的拍手」が、当面は、鳴り響き渡るのだろう。
 以上、なんやかやと、日本の悲観的な状況の側面を羅列したが、全ては、国民が、被統治者が、分断されたり、みずから国民内部の敵対を加速させたりした結果のこの政治状況なのだ。
 そして、このことは、国民の少なくない人々が「教祖的ヒーローへの依存型」から「共生のための自発的共同の推進型」に変わるべきことを教えている。
 以前も書いたが、共生のための「共同の芽」は、必要量から見れば少ないが、それでも、私たちの周りには既に生まれている、結構ある。必要なのは、何らかのアクションを起こす気になって、それを調べて見ることだし、そのどれかに、あるいはそれがどうにも馴染めないなら、自分がささやかにでも立ち上げるなどして、地域での住民間の「共同」を、「共生」を旗印に共につくりあげて行くことだ。
 その際、注意し、且つ知っておかねばならない前世紀から受け継ぐ教訓がある。それは、共産党員が入り込んで来る場合である。彼らは党是として「赤旗と党員拡大に勝る社会変革の闘いはない」ことを掲げており、赤旗や党員が増えてこそ「大衆運動は豊かに発展する」と「指導=指令」されているからである。似たようなものに創価学会もあるが、こちらの方は、今自民党と連立中なので、あまりあちこちの組織や運動体などに大胆にも乗り込んで物議を醸す程の行動は多少差し控えているようだ。
 共産党は、自民圧勝の隙間で僅かに議席増したことを、ちょっとした弾みだと冷静に受け止めるようなことは案の定せずに、その幹部たちは、長年(=90年)にわたり党員に染み込ませて来たサブリミナルの効果発現を期待して、「第3次の歴史的大躍進だ、今こそ拡大の絶好のチャンス」と銘打ち、党員の尻をここぞとばかりに叩いて赤旗や党員を増やすよう指導(=同前)しているから、これらに振り回されないようにしよう。
 但し、私達はレーニン型共産党と違い、なんのためらいもなく中央集権体制を敷いているような「基本的人権蹂躙者」ではないのだから、私たちとあまり変わらない、世間的善意から、つい入党してしまった人などには「あなたがおいでになるのは構いません、しかし住民が自発的に共生をめざす私たちの運度そのものを尊重して下さい、コンピュータウィルスやトロイの木馬ならぬやり方で、市民の共同を政党が振り回すようなこは良くないことです」と、ジュンジュンと諭す必要がある。
 決してのっけから「また賽の河原の石積みですか、それ誰のためにやってるか知ってますか?」とか、「とったりやめたりの万年赤旗購読対象者も、いよいよ底を突きましたか、今度はここですか」などの率直な、自分のガス抜きを兼ねたような物言いは、私の経験からも極めて面倒な事態に巻き込まれる危険があるので避けるべきである。(希なケース)
 今も、これからも、必要なのは、アリキタリに言えば「人民の、人民による、人民のための共同」であり、管制的町内会ならばそこを手始めにしても良いし、やろうと思えばやれることは誰にでもあるのではないだろうか。
 町内会の役員になって顔を売って「保険や政党新聞の勧誘」をする後ろめたさなど何もない、まさに共同のための共同。遠回りのようだが、所詮、タテマエ民主主義の国を何とかするには、これしかない。
 この高揚が、政治勢力としても動ける本物の「共生めざす国民の共同協議体」あるいはそれが、真に平等公平な新しいスタイルの政治組織の誕生を促すのではないかと私は思う。 
 だが、どの歴史を見ても明らかなように、政党とは、社会進歩を促すために、「国民自身が築く共生社会」のための、その「共同づくりの道具」に過ぎない。「道具」が真理になったり、「かけがえのないもの」であってはならない。(誠実一途な、あの小林多喜二の不幸がそこにあると私は思う)戦後復興、高度成長型だったから何とか通用して来た「ヒーロー依存型」の「革新勢力」図も、資本主義の新しい時代=国際資本主義へと発展する中で、必然的に生ずる「旧先進国内の資本主義的貧富の拡大」の中では、ハッキリと色あせた。そのことで、逆に近親憎悪のように旧「革新勢力」は国民から見放され、嫌われている。
 安倍や麻生などが、「今が千載一遇のチャンス」と浮かれて本音をブチまけるのは極めて当然である。
 今彼らの鼻先には、オールマイティーな金権も、スーパーな地位も権力も、そしてその上、「上流階級のヒーロー」としての名誉も恩典も、馬ニンジンの様に揺れているはずだ。
 こんなことでは、あの戦争、原爆、公害、人権無視による様々な災厄の中で死ななければならなかった人達は決して浮かばれない。
 いつの時代も、強権力者の武器は被抑圧者の分断である。だから、私たちの武器の最大のものは、より大きな「共生のための共同づくり」だ。国民の政治意識の高まりとは、これが全てではないだろうか。
 「革命レシピは持ってますから、ウチに来たら注入してあげます」などというのは霊感インチキツボと何も変わらない。なんの事はない、あわよくば、くろい抑圧者に、あかい抑圧者が取って替わるだけになってしまうのだ。
 教祖的ヒーロー人間の存在しない組織はもろかったというのは、封建時代はもちろん、封建に民主主義の産毛が生えた程度の過去の時代の歴史の真実である。
 だが、それはあきらかに前近代だ。私たちの今の課題は、それを乗り越えた共同づくりだと思う。