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一般投稿欄

都知事選の候補一本化論について。丸氏への回答

2014/3/22 原仙作

(1)、はじめに
 私の言う細川への一本化論は、脱原発派を都知事選で勝たせようとする選挙戦術であって、脱原発政策を左翼の専売特許とそのイメージから救い出し、左翼嫌いの脱原発派の保守・中間層をも取り込もうとねらうものであった。しかしながら、共産党は1月27日に「全都幹部活動者会議」を開き、「細川はこれまでの都政の継承者だ」(「赤旗」1月28日付)と規定し、石原都政とその継承者猪瀬の同類だと主張していた。
 この同類論は共産党お得意の「同じ穴のムジナ」論の一種であるが、細川の脱原発政策(即時原発ゼロ、再稼働阻止)を敢えて無視する点で驚愕すべき頑迷・偏狭ぶりを発揮した。
 2011年、「維新」の橋下が府知事を辞めて大阪市長選に立候補した時は、用意した自前候補を降ろし、政策協定も結ばず、勝手連風に、自・民が推す現職の平松に相乗りしたのだが、その「柔軟性」(?)と比較すると、今回の都知事選をめぐる動きはまったく対照的であった。
 そのせいか、左翼には頑迷・偏狭ぶりは伝播しやすいのか、小泉・細川嫌いが触媒になっているのか、日頃は共産党にも距離を置き、孤高の地位に留まっていた丸氏が宇都宮陣営に投じて私の一本化論を批判している。

(2)、丸氏による一本化論批判・その1
 原は宇都宮を政策が総花的で脱原発に熱意がない、と言うのであるから、宇都宮が出馬したところで細川とバッティングしないじゃないか、「宇都宮の立候補はほとんど障害にはなり得ないはずである。」と主張している。
 しかし、これは奇妙な理屈である。私は宇都宮の政策メニューが脱原発も福祉も並列的で総花的であると指摘しているが、宇都宮が脱原発(原発即時ゼロ)政策を主張していない候補だと言っているわけではない。前回も今回も宇都宮は脱原発を主張する候補であり、選挙戦の実際も、大方の予想どおり、細川と脱原発票を真っ二つに二分し、安倍政権に安眠の枕を提供したのである。だから、私は脱原発派の敗因はその分裂にあると言っているのである。

(3)、丸氏による一本化論批判・その2
 また、丸氏に言わせると、一本化で共産党が細川支持になれば、細川は「とんでもないハンデを背負わされることになっていたであろう!あくまでも原氏の主張に従うなら、それが論理的帰結である。」と言うのである。
 「とんでもないハンデ」とは、細川に共産党の支持が来れば、脱原発政策を左翼の専売特許イメージから救うことも、保守・中間層の取り込みも難しくなると言うのである。  この「とんでもないハンデ」がどうして「論理的帰結」になるのかわからないが、心配ご無用。庶民の政治意識は、丸氏の「論理的帰結」(?)より多様であって、細川・小泉の元首相連合の印象はやはりそれなりに強烈で、都民の感覚・印象からすれば、細川が左翼候補になるのではなく、逆に、脱原発政策が左翼専売特許のイメージから救い出されたと見てよいだろう。「首都圏反原発連合」の呼びかけ人ミサオ・レッドウルフも同様の感想を述べていたはずである。
 その目安としては前回の都知事選と比較して、左翼専売特許イメージに取り憑かれていたはずの脱原発票が2倍に増えたことである。この悪しきイメージの付着は、細川への一本化如何に関わらない既存の事実であったことを想起してもらいたい。にわか脱原発派には実感できないであろうが、長く反原発運動に関わってきた者には痛感されてきたイメージなのである。
 呪われた脱原発政策は細川・小泉連合の咆哮で呪いが解かれ脱原発票が新たに出て来たのであって、共産党がやって来ても、もはや、解かれた呪いは元には戻らないというのが、むしろ、「論理的帰結」なのである。

(4)、脱原発政策に架けられていた呪いは解かれた
 前回はただ一人脱原発を言う一本化候補でありながら、宇都宮票は96万票にすぎず、そのほとんどは左翼票(社共の基礎票だけで7~80万票)であった。今回もその9割方の票が宇都宮に行ったと推測されるのであるから、細川票96万票の大半は新規に掘り起こされた保守・中間・無党派層の脱原発票である。
 時事通信の出口調査によれば、自民支持層の9%、民主の39%、維新の21%、社民の21%、無党派の25%、共産の8%が細川に投じている。宇都宮票との比較で見れば、宇都宮に投じたのは民主支持票の25%、維新の12%、自民の4%、無党派の26%である。自民・民主・維新から奪った票でみれば、細川は宇都宮にほぼダブルスコアに近い差をつける健闘ぶりであることがわかる。
 また、読売の出口調査(2月10日付)によれば、重視した政策で投票動向を見ると、宇都宮の支持層は「14%」しか「原発などエネルギー問題」を重視していないのに対し、細川支持層ではそれが「62%」に跳ね上がる。この両者の違い、細川の「62%」は、有権者の投票動向の歴史的新段階とでも規定して格別に重視されて良いのだが、ここでは触れない。
 大雪で史上3番目の低投票率の中で、しかも、都民の身の回りの直接的生活利害からは遠いにもかかわらず、これだけの脱原発票が新たに出現したのである。宇都宮票と合わせて194万票にもなり、舛添の211万にそれほど見劣りしない脱原発票数が出たのだから、脱原発政策が都知事選を境に市民権を得たと言っても良いだろう。細川を共産党が支持しても脱原発票は減らない。
 むしろ、共産党のためには、細川を支持した方がその柔軟性が注目され、保守・中間層からも見直しの気運が出たのかもしれないほどである。

(5)、「ドン引き」する丸氏の敗因論
 さて、私は以上のように反論したわけであるが、丸氏は上記に紹介したふたつの一本化否定論から、真の敗因、その元凶は悩んだ末に細川支持を表明した「『脱原発都知事を実現する会』『脱原発都知事選候補に統一を呼びかける会』」だと言うのである。  これはまた面妖な、と思うのだが、どうしてそんなことになるのかと言うと、これらの会に名を連ねる人たちが「左翼以外の何者にも見えないであろう人物ばかりである」からなのだそうだ。つまり、私が取り込もうとねらう保守・中間層が「ドン引き」しちゃったと言うわけである。
 かくて、例によって、丸氏にかかると次のような大層な結論に行き着くのである。

「都知事選における脱原発派の敗因とその元凶を宇都宮と共産党に求める原氏の見解は、原氏自身の主張によって内在的に破綻、ないし完全な自家撞着となっているのである。」

 こんな丸氏の文章を読むと、まじめに反論を書く自分がアホらしくなってくるが、次のように回答しておこう。丸氏の言う左翼丸出し顔の面々が細川支持を打ち出しても、また短期間で、選対の混乱など準備不足があったにもかかわらず、細川は宇都宮票に匹敵する96万票を新たに掘り起こしたのであり、その事実こそ、「ドン引き」はなかった証拠なのである。だからまた、共産党がやって来てもウェルカムである。しかも、この掘り起こし票の「62%」は脱原発政策を重視する有権者なのであって、宇都宮票の「14%」とは格段の差があった。

(6)、行方久生の「重回帰分析」なるもの・その1
 私の一本化論への丸氏の批判は以上のようなものであるが、一本化論に関連して丸氏が自説の補強に引用している「行方久生・文教大学教授」による「重回帰分析」なるものを検討しておこう。
 この行方の論は前に一見したことがあるが、改めて調べてみると、宇都宮支持派が拡散に熱心なようであり、当人もバリバリの宇都宮派で一本化論者は「頭を丸めて、四国のお遍路さんをやってほしい」と言うほどであるから、こちらも遠慮は無用なようだ。 丸氏の引用文から孫引きして紹介すると、次のような要旨になる。細川と宇都宮の支持層では、

「所得の状況によって、投票する対象がかなり鮮明に異なっているという事実」があり、「仮に一本化しても、もともと、投票する人たちが異なるので、その効果は、極めて限定的なものであったというのが事実である」

 どういうことかというと、当人の日本語能力に問題があるようで解説が必要なのだが、所得水準に規定されて宇都宮であったり細川になるのだから、一本化しても「その効果は、極めて限定的」、一本化は効果がないから一本化は無意味だ、と主張しているわけである。これが統一戦線思想それ自体の否定論であることは指摘するだけに留めておこう。
 さて、この行方「重回帰分析」なるものは、その結論(解釈)が我田引水で完全に間違っているのである。大学教授であっても、ある種の政治的意図を持って専門外の選挙分析などをやるからこういうことになる。丸氏は行方「重回帰分析」なるものを受け売りするだけで、自分でその内容を検討していない。

(7)、行方久生の「重回帰分析」なるもの・その2
 「重回帰分析」なる分析手法はそれほど難しいものではなく、「ウィキペディア」を見れば、何だ、こんなことか、と簡単な英単語の事例で説明があるので、そちらを参照してもらうとして、行方の分析は用語も丸めて要点を簡単に言うと次のようになる。
 まず、東京23区の区・別一人当たりの平均所得を官庁統計から取り出す。次に23区における宇都宮と細川の得票差を取り出す。私の手元資料では最大7611票(世田谷区・細川のプラス)、この二つの数値を、縦軸に得票差(ゼロ点を中心に、上が宇都宮のプラス差、下が細川)、横軸に平均所得(左端をゼロ円とし右端が900万円)、そして各区をこのマップ上のピンポイントとして記入する。例えば、低所得の板橋区でみると、平均所得375万円(2006年)で宇都宮の得票が細川より6076票多いのであるから、板橋区のピンポイントは左上に来る。こうした作業を23区全てについてやる。
 そうすると、ピンポイントの密集するところをねらって、左上から右下にかけて一本の直線を引くことができる。この直線は簡単な数式で表現できるが、ここでは省略。また、当たり前のことであるが、この直線上に23区のピンポイントがきれいに並ぶわけではない。

(8)、行方久生の「重回帰分析」なるもの・その3
 さて、このピンポイントマップとそこに引かれた直線から、どういうことがわかるかというと、23区のうち、平均所得水準の低い区で宇都宮票のプラス分が多く出ていることがわかり、細川では平均所得水準が高い区でプラスの得票差が出ているということである。
 しかし、この程度のことは、こんな分析をしなくても、およそわかっていることである。宇都宮98万票のうち80万票は社共の票であるから、どちらかと言えば所得の上では下層が多いから、平均所得水準の低い区では相対的に宇都宮が強い。細川票は宇都宮より保守・中間層の比率が高いのだから相対的に所得水準が高いところで強いと推定できる等々。
 そして、この程度の分析から上記引用の行方主張が言えるのか、と言うことである。すなわち「所得の状況によって、投票する対象がかなり鮮明に異なっているという事実」があり、「仮に一本化しても、もともと、投票する人たちが異なるので、その効果は、極めて限定的なものであったというのが事実である」

(9)、行方久生の「重回帰分析」なるもの・その4
 まず、「所得の状況によって」と言うものの、そこで上げられているのは区・別の平均所得(行方論では「総所得金額等」)だけなのだから、たとえば、低い方の板橋区375万円(2006年)はどういう性格の所得なのか? 労働者階層なのか中間層なのか? 実際は金持ちから失業者まで含んだ平均が375万円なのだから、「所得の状況によって、投票する対象がかなり鮮明に異なっているという事実」なんて言えるわけがないし、わかるわけもない。こんなことを言うためには、平均所得ではなく、出口調査で有権者にその所得と投票した候補者をもれなく聞かなければならない。
 仮に平均所得が375万円なのだから板橋区は労働者階級で代表させるとして、そのせいで宇都宮票は細川より6076票(私の調べ)多いのだ、と主張すれば笑われるであろう。全国一の港区の平均所得1006万円(2006年)では、金持ち階層で代表させ、それで細川票が6824票多いのだと納得できるであろうか。
 港区の有権者の実際の投票動向は舛添34808票、田母神12738票、細川19792票、宇都宮12968票で、何と金持ちが宇都宮に13000票も! と解釈すれば、これはもう悪い冗談で、学者がやることではないだろう。
 どの区でもそうだが、ある平均所得を得ることは計算上できるが、実際の有権者は金持ちから失業者までおり、それぞれの人が誰に投票したかを所得水準ごとにグループ化するには、区ごとの平均所得を取り出すだけではできないのである。
 以上のようなわけであるから、もうこれ以上、行方「重回帰分析」の解釈にお付き合いする必要はないだろう。

(10)、遅れてやってきた小沢一郎の新弟子
 最後に私の一本化論に対置する丸氏の選挙戦術を見ておこう。

「一点突破全面展開とばかりに一回の選挙でどうにかしようという発想は、現実に成り立った試しがない。田中角栄が言い、小沢一郎が引き継いだ選挙の鉄則は、"戸別訪問3万軒、街頭演説5万回"であった。~~これぐらいの地道で持続的な活動こそが、脱原発派には求められているのではないか?」

 いやはや、人は変わるものである。丸氏の変貌ぶりは瞠目してよい。かつて、6、7年前、私と論争した時は、無党派層への不信感を吐露していたのだが、角栄の秘蔵っ子・小沢一郎も丸氏のような新しい弟子を得たことを喜ぶであろう。
 どんな選挙であれ、コツコツと地道に有権者との対話を積み重ね、有権者の信頼を勝ち取ることは選挙運動の基本であり、そのことを私は否定したことはないし、国策捜査で弾圧された小沢を支持してもきたのである。
 問題は選挙運動一般の話ではなく、2月9日に行われた都知事選でどういう選挙戦術を採るべきであったのか、ということである。この選挙では特筆すべき事件=細川・小泉連合の脱原発派が登場したことであって、この存在への対処をぬきに「街頭演説5万回」と言っても、都合の悪いことは見ないと言うに等しい思考停止である。
 細川は原発即時ゼロ、再稼働阻止と明言していたのであるから、どうして脱原発へ向けた一歩前進の芽を利用しようとしなかったのかである。おそらくは細川・小泉連合への猜疑心がそうさせたのであろう。旧来の左翼は大半がその旺盛な猜疑心のために自縄自縛に陥っており、とばっちりを受けるのは庶民である。
 分裂した一方の宇都宮がバラ色の政策メニューをいくら並べても当選できないのだから、絵に描いた餅にすぎず、そんな選挙戦を共産党は半世紀以上もやってきて、国政選挙では相変わらず10%の得票率さえ安定的に確保できないのである。この事実は、「街頭演説5万回」をやっても、誰でもが庶民の信頼を得られるわけではないことを示しているのである。