Ⅰ 判決の概要
大飯原発運転差止請求事件判決は、画期的な判決であった。以下に要旨をさらに省略して短くして判決の意義を私なりに把握したいと考える。
主文は、以下の3点である。
・被告は、別紙原告目録1記載の各原告(大飯原発から250キロメートル圏内に居住する166名)に対する関係で、福井県大飯郡おおい町大島1字吉見1-1において、大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。
・別紙原告目録2記載の各原告(大飯原発から250キロメートル圏外に居住する23名)の請求をいずれも棄却する。
・訴訟費用は、第2項の各原告について生じたものを同原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。
その理由に注目すべき見解がうかがえる。
判決はいう。
「ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を間わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。
個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。」
人格という言葉が観念やカント哲学的な形而上学の概念と思われやすい中で、この判決は注目に値する。「生存権を基礎とする人格権」という概念は、今後法曹界において、究めるべき理論的なカテゴリーとして検討されていくだろう。
判決は、福島原発事故についてこういう。
「福島原発事故においては、15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは想像に難くない。さらに、原子力委員会委員長が福島第一原発から250キロメートル圏内に居住する住民に避難を勧告する可能性を検討したのであって、チェルノブイリ事故の場合の住民の避難区域も同様の規模に及んでいる。
年間何ミリシーベルト以上の放射線がどの程度の健康被害を及ぼすかについてはさまざまな見解があり、どの見解に立つかによってあるべき避難区域の広さも変わってくることになるが、既に20年以上にわたりこの問題に直面し続けてきたウクライナ共和国、ベラルーシ共和国は、今なお広範囲にわたって避難区域を定めている。両共和国の政府とも住民の早期の帰還を図ろうと考え、住民においても帰還の強い願いを持つことにおいて我が国となんら変わりはないはずである。それにもかかわらず、両共和国が上記の対応をとらざるを得ないという事実は、放射性物質のもたらす健康被害について楽観的な見方をした上で避難区域は最小限のもので足りるとする見解の正当性に重大な疑問を投げかけるものである。上記250キロメートルという数字は緊急時に想定された数字にしかすぎないが、だからといってこの数字が直ちに過大であると判断することはできないというべきである。」
福島原発事故の実態と他国での原発事故の教訓を踏まえた判断が示されている。
本件原子力発電所に求められるべき安全性について、判決はこういう。
「原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。しかるところ、大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い。かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められ るのは当然である。このことは、土地所有権に基づく妨害排除請求権や妨害予防請求権においてすら、侵害の事実や侵害の具体的危険性が認められれば、侵害者の過失の有無や請求が認容されることによって受ける侵害者の不利益の大きさという侵害者側の事情を問うことなく請求が認められていることと対比しても明らかである。
新しい技術が潜在的に有する危険性を許さないとすれば社会の発展はなくなるから、新しい技術の有する危険性の性質やもたらす被害の大きさが明確でない場合には、その技術の実施の差止めの可否を裁判所において判断することは困難を極める。しかし、技術の危険性の性質やそのもたらす被害の大きさが判明している場合には、技術の実施に当たっては危険の性質と被害の大きさに応じた安全性が求められることになるから、この安全性が保持されているかの判断をすればよいだけであり、危険性を一定程度容認しないと社会の発展が妨げられるのではないかといった葛藤が生じることはない。原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。」
このように、原発の安全性と法理的判断の関連について判決は的確に見解をあきらかにした。
さらに、安倍内閣が丸投げにしている原子力規制委員会の位置づけにもこう述べている。
「原子炉規制法に基づく審査との関係は、人格権の我が国の法制における地位や条理等によって導かれるものであって、原子炉規制法をはじめとする行政法規の在り方、内容によって左右されるものではない。したがって、改正原子炉規制法に基づく新規制基準が原子力発電所の安全性に関わる問題のうちいくつかを電力会社の自主的判断に委ねていたとしても、その事項についても裁判所の判断が及ぼされるべきであるし、新規制基準の対象となっている事項に関しても新規制基準への適合性や原子力規制委員会による新規制基準への適合性の審査の適否という観点からではなく、(1)の理に基づく裁判所の判断が及ぼされるべきこととなる。」
さらに、原子力発電所の特性として、原子力発電技術の特性として、原子力発電においてはそこで発出されるエネルギーは極めて膨大であるため、運転停止後においても電気と水で原子炉の冷却を継続しなければならず、その間に何時間か電源が失われるだけで事故につながり、いったん発生した事故は時の経過に従って拡大して行くという性質を持つ。このことは、他の技術の多くが運転の停止という単純な操作によって、その被害の拡大の要因の多くが除去されるのとは異なる原子力発電に内在する本質的な危険であることを指摘している。それゆえに、
「施設の損傷に結びつき得る地震が起きた場合、速やかに運転を停止し、運転停止後も電気を利用して水によって核燃料を冷却し続け、万が一に異常が発生したときも放射性物質が発電所敷地外部に漏れ出すことのないようにしなければならず、この止める、冷やす、閉じ込めるという要請はこの3つがそろって初めて原子力発電所の安全性が保たれることとなる。仮に、止めることに失敗するとわずかな地震による損傷や故障でも破滅的な事故を招く可能性がある。福島原発事故では、止めることには成功したが、冷やすことができなかったために放射性物質が外部に放出されることになった。また、我が国においては核燃料は、五重の壁に閉じ込められているという構造によって初めてその安全性が担保さ れているとされ、その中でも重要な壁が堅固な構造を持つ原子炉格納容器であるとされている。しかるに、本件原発には地震の際の冷やすという機能と閉じ込めるという構造において次のような欠陥がある」
として欠陥の所在を明確に指摘する。
「冷却機能の維持について
日本列島は太平洋プレート、オホーツクプレート、ユーラシアプレート及びフィリピンプレートの4つのプレートの境目に位置しており、全世界の地震の1割が狭い我が国の国土で発生する。この地震大国日本において、基準地震動を超える地震が大飯原発に到来しないというのは根拠のない楽観的見通しにしかすぎない上、基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、そこでの危険は、万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。このような施設のあり方は原子力発電所が有する前記の本質的な危険性についてあまりにも楽観的といわざるを得ない。
閉じ込めるという構造について(使用済み核燃料の危険性)
使用済み核燃料は本件原発の稼動によって日々生み出されていくものであるところ、使用済み核燃料を閉じ込めておくための堅固な設備を設けるためには膨大な費用を要するということに加え、国民の安全が何よりも優先されるべきであるとの見識に立つのではなく、深刻な事故はめったに起きないだろうという見通しのもとにかような対応が成り立っているといわざるを得ない。」
さらに、現在の時点における大飯原発の安全性について、
「国民の生存を基礎とする人格権を放射性物質の危険から守るという観点からみると、本件原発に係る安全技術及び設備は、万全ではないのではないかという疑いが残るというにとどまらず、むしろ、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ち得る脆弱なものであると認めざるを得ない。」
としている。
被告の主張についても、こう述べる。
「他方、被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。
また、被告は、原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。」
上述の判断の展開に立脚して、結論を下している。
「以上の次第であり、原告らのうち、大飯原発から250キロメートル圏内に居住する者(別紙原告目録1記載の各原告)は、本件原発の運転によって直接的にその人格権が侵害される具体的な危険があると認められるから、これらの原告らの請求を認容すべきである。」
この画期的な判決は、福井地方裁判所民事第2部の樋口英明裁判長裁判官、石田明彦裁判官、三宅由子裁判官の三名である。
Ⅱ 判決の意義
法学に詳しくはないのて゛、Ⅰの要約で不十分さがあったら、ご容赦いただきたい。 Ⅱにおいては、判決が及ぼす社会的意義について考察したい。
世間では、どうせ地裁で勝訴しても高裁、最高裁で敗北するから、残念だが勝ってもしかたない。こういう見方も見受けられる。私は以下のように考える。
地裁・高裁・最高裁と三審制の日本において、地裁判決では良心的判決が出ることが多い。白鳥事件に対する伊達判決、国民の教育権を認めた杉本判決。今回の判決も、万一上級の裁判所で敗訴することがあっても、「人格権の保障」という観点を打ち出した判決は、原子力発電所事故に対して日本の法曹界が示したすぐれた判例として、後世の裁判官にも大きな意義を残すものとなる。
さらに、安全性の考え方、被害のとらえかた、地震災害と原発事故との因果性など、今回の樋口判決は、安倍自公政権の閣僚からの介入に左右されない判決として国民全体に感動と自覚とを残してくれた。
だが、このような判決が出ても、すぐに高裁金沢支部に上告した被告と検察の動きには、国家公務員としての職務から派生する「義務感・責任感」に基づいているのだろうか。そのような義務感や責任感は、フランス文学「レ・ミゼラブル」において、ジャン・ヴァルジャンを刑事としての忠実さから追いかけ続けたジャヴェール警部の義務や責任と似た性質のものと思える。人類が破滅する危険性を孕む原発の問題に対して、人類の破滅と存続という危険な二元論の前に立たされた時。東電社員である吉田昌郎氏は、福島原発所長として、事故の最も間近に直面して、被曝にもかかわらず、日本列島の原発事故が3号機の爆発に直面して、昼夜分かたず破滅からの救助に一身を賭けて、取り組み続けた。吉田 所長の言動こそ、公的な責任と義務の化身と思われる。凄絶なガンで死去された吉田所長のことを思うと、被告の側に立つ検察当局は、現代なにが公僕として必要なのか、沈黙のうちに明示されているではないだろうか。
民衆の側に立つ社会運動は、樋口判決の社会的意義を十二分に咀嚼して、今後の反原発運動のなかに生かしてほしい。
まず第一に、反原発の原理原則としての「安全性の考え方」を体現しえない運動では、地震列島の日本から原発事故は阻止できない。
第二に、保守勢力から出てきた細川護煕氏・小泉純一郎氏の反原発運動についても、予断をもたず十二分に見極めて、もしも反原発運動をになう点で一致できる点があれば、広く提携し連携しあってほしい。ただし、反原発を建前としての知事選挙などの民衆分断行動などが第一義ならば、連携の余地は薄れる。この問題は東京都知事選でも見られた紛争点問題点なので、同じ轍を2度と踏まないようにと念を押したい。
第三に、政府安倍自公政権は、すでに全国各地の原発再稼働をなかば強行的に踏み切ろうとしている。その時点に出た樋口判決は、社会運動ではなく、法曹界の見識ある良識派の勇気に満ちた判決である。このように、社会運動圏とは離れた国民的規模で、原発事故の問題を真剣に考え、心をいためている多くの国民的良心に十二分に失望ではなく希望を与えるような反原発運動の構築が求められている。
国民的良心にあふれた法曹界の誠実な判決に、日本国憲法の精神を継承しようとする民衆側が応じる順番がきた。