お久しぶりです。前の投稿以来、1ヶ月間「さざ波通信」を見てなかったら、なにやら議論が進んでますね。ほんとうは(投稿した責任として)私などが再投稿すべきところを、まっぺん氏が投稿しているようで、すいません。遅ればせながら再投稿させていただきます。
まず本題の前に、共産党のトロツキー評価について、若干の補足をします。
共産党のトロツキー評価は、だいたい吉井ゆき氏も述べている通り、「「赤旗」評論特集版」(1991.2.4付)の中の不破論文にある通りです。参考までに末尾に載せておきます。ただし、注意すべきなのは、前半までは中央で確認された見解なのですが、途中から「わたし〔不破〕の見解」と称して不破委員長個人の見解を述べていることです。共産党によくある手法で、公式見解と委員長等の個人見解との境目を曖昧にしています(なお、これが個人見解にすぎないことは、党中央に質問して確認しています)。おそらく、沼谷ひろし氏の指摘したダブルスタンダードがここにもあるのでしょう。それはともかく、この論文から『日本共産党の70年』作成の過程で、今の党の立場を確定した、とのことです。たしかに、『60年』『65年』では、学生党員の一部がブントを結成した経過について、「学生党員の一部では、反共攻撃に屈服して、科学的社会主義の原則を全面的に否定してトロツキズムにはしるものもうまれた。」となっていたのが、『70年』では、「……トロツキズムの名のもとに日本共産党に敵対し、反党分派活動にはしるものもうまれた」と、隠微なかたちで修正されています(『50年(増補版)』などでは表現が若干異なるが、基本的には同じ。ただし、『60年』『65年』の方がより否定的)。
さて、まっぺん氏も述べているように、「反帝・反スタ」はトロツキズムではありません。トロツキーを正しく評価しようとする人々の間ではもはや常識です。おそらくk-Jun氏は、このような主張をする人が革マルや中核などをどう考えてるのか、を危惧しているのではないかと思われますが、それは杞憂というものです。
「反スタ」というとき、「スターリン主義国家打倒」という意味と「共産党打倒」という意味があるように思われますが、前者についていえば、トロツキーは終始「労働者国家擁護」を掲げ続けました。彼の仲間から「反スタ」的主張がでたときには、それを「小ブル的偏向」としてしりぞけました。こんなことは、日本共産党の側でもわかっていることです。吉井ゆきさん、「手元にある」『現代トロツキズム批判』を読み返してください。トロツキーが「反帝・反スタ」など掲げていないことに気付くでしょう。榊利夫常任幹部会委員(当時)が引用しているのは黒田寛一であってトロツキーではありません。不破委員長も同様です。「現代トロツキストは、いまやトロツキーの『中間主義』が我慢できないのである。〔……〕現代トロツキストは、ついにトロツキーさえ公然と言いえなかったこと、帝国主義者がソ連におそいかかった時これに呼応して背後から社会主義国家をアイクチでさすという『同時革命』の戦術を堂々と主張するところまで到達したのである」(『マルクス主義と現代イデオロギー』上)などといって、「現代トロツキスト」の主張ということにしてゴマ化しているわけです。しかし、トロツキーの生前の主張を思えば、まさに「反スタ」か否かにトロツキズムか否かの一線があります。そして、「反スタ」党派、たとえば革マル派にとっては、「労働者国家擁護」こそトロツキーの「限界」であり、それを「突破」したのが「反スタ」であり、労働者国家擁護にしがみつくものは「教条主義者」だというわけです。
「共産党打倒」云々の主張についていえば、まっぺん氏のいうとおり、内ゲバはスターリン主義に端を発しています。代表的には、スペイン内戦において、スターリニストはPOUMを徹底的に弾圧しました。トロツキストは、たとえばフランスではレジスタンスに加わるなど、革新の役割を果たしてきました。戦後も、条件のあるところでは、トロツキストは共産党とも共闘してきたし、これからもそうするでしょう。たとえば、「赤旗」でよく好意的に取り上げられるドイツ民主社会党の国会議員に、第4インターの個人加盟者がいることをご存知ですか?
また、「国際共産主義運動の負の遺産」といいますが、そもそもどの時代のいかなる「負の遺産」を指しているのですか? ひどく曖昧ですが、「トロツキー、スターリン」と並列していることから判断するに、内戦に伴うテロルなどを指していっているのですか? しかし、それは多くの問題点もありましたが、「違う意見の者」に対する暴力ではありません。そうすると、やっぱりレーニンだけは外していることも併せ考えるとレーニン死後の運動の中の問題をいっているのですか? しかし、周知のごとく、レーニン死後トロツキーはあっという間に、降格→追放されています。負の遺産とは無縁でしょう。そういうわけで何をいいたいのかわかりかねますが、全体として吉井ゆき氏の所論には清算的な傾向が感じられます。ロシア革命の経験全般について、結局は過去のことだ、という感覚があるのではないでしょうか? 私見では、こういう感覚の醸成には、不破委員長の、最近とくに著しいマルクス―レーニンの違いの強調が一役買っているのではないかと思われます。それについては別途検討されるべきとしても、ロシア革命の経験から生まれ、投げかけられた問題は非常に多いのではないでしょうか。トロツキー、スターリンを一緒くたにし、単純に誤った過去として流しさってしまう姿勢では、「党の歴史を今一度『正史』に限定せずに、見直していき、誤っていた点についてははっきりと認める」上でも問題があるのではないでしょうか。
●参考資料
突っ込みを入れたい部分は多いのですが、それはまたの機会ということで、とりあえず、党の公式見解と不破委員長の「わたしの見解」です。
「歴史の見直しがすすんでいるが、そのなかで、トロツキーはどう評価されるか。
たしかに、ソ連での歴史の見直しのなかで、トロツキーの役割の再検討もすすんでいます。これを歴史の実態に即してあきらかにしてゆくのは、当然のことですが、日本でのこの問題を考える場合、まず確認しておく必要のあるいくつかの点があります。
1つは、ロシア革命におけるトロツキーの役割の評価の問題と、トロツキーの旗をかかげた日本のニセ「左翼」暴力集団の評価の問題とは、まったく別個のことがらだということです。彼らは、この日本で、反共・反革新の無法な行動をやってきたし、いまもそれをやっているわけですから、彼らが看板にしていたトロツキーの役割が再検討されるようになったからといって、それが日本における彼らの行動の免罪とか名誉回復などにつながるものでは、けっしてありません。そこの区別は、まずはっきりさせておく必要のある大事な点です。
もう1つは、スターリン時代の、トロツキーは帝国主義につながった反革命派で、最初からそういう邪悪な目的で革命に参加したのだという断罪――これは、スターリンが最終的におこなったものでしたが、こうした断罪の誤りは明白だということです。これは、ブハーリンその他にたいする断罪と同じ性質のもので、私が昨年書いた論文『スターリンはレーニンの道にいかにそむいたか』のなかでも、とりあげました。また、刺客をメキシコにおくってトロツキーを暗殺したことも、国内での大量弾圧と不可分のものとしておこなわれたもので、スターリンの重大な犯罪行為の1つをなすものです。
こうした問題を明確にしたうえで、トロツキーの役割について少しのべますが、問題は、ロシア革命の経過のなかで彼がはたした役割を、その時期時期に、事実を即して評価するということで、これは、歴史研究の問題ですから、以上は、わたしの見解としてきいてください。
(1)トロツキーは、ロシアで社会民主労働党が創立された最初の時期から、1917年の2月革命後にボリシェビキ党に合流するまで、メンシェビキの側、あるいはいわゆる「中間派」の立場にたって、レーニンとボリシェビキに反対し、反レーニンの旗頭の一人となっていました。レーニンは、党中央の人事についての最後の手紙のなかで、トロツキーの「非ボリシェビズム」といって、この問題を指摘しています。
(2)彼は、ボリシェビキ党に参加したときには、すでにソビエトの議長に選ばれて活動しており、十月革命では、その政治的・軍事的指導者の一人として、大きな役割をはたしました。スターリンは、この事実を抹消しようとして、この革命におけるトロツキーの役割をたたえた自分の文章を全集から削ったりしましたが、トロツキーが当時レーニンとならぶ革命の指導者と目されていたことは、ジョン・リードの『世界を震撼させた十日間』などを読んでもわかります。
(3)十月革命のあと、トロツキーはいろいろな面で積極的な活動をおこなうと同時に、ドイツとのブレスト講和の問題とか、内戦終結の時期における労働組合にたいする態度の問題などで、レーニンに反対したり、論争したりしました。
レーニンがその活動の最後の時期に、スターリンの大国主義や横暴を知り、これと闘争する決意をしたときに、病床から、党大会で自分にかわってスターリンとたたかうことを依頼したのは、トロツキーでした。しかし、トロツキーはスターリンにたいして妥協的態度をとって、レーニンのこの依頼には応じませんでした。
(4)レーニンは、自分の死後の党の分裂の危険を心配して、この問題について「大会への手紙」を書きます。ここで、レーニンは、「分裂の危険の大半」は、スターリンやトロツキーの間がらからきているとのべ、スターリンが書記長となって権力をその手に集中したことへの懸念を表明しますが(その批判はその十日後の手紙では、スターリン解任の提案に発展します)、トロツキーについても、その資質への危惧を語っています。
「同志スターリンは、党書記長となってから、広大な権力をその手に集中したが、彼がつねに十分慎重にこの権力を行使できるかどうか、私には確信がない。他方、同志トロツキーは、彼が交通人民委員部の問題について中央委員会と闘争したことがすでに証明したように、めだった点は、すぐれた才能をもつ人物というだけではない。個人的には、彼は、おそらく現在の中央委員会中でもっとも有能であろうが、しかしまた、度はずれて自己を過信し、物ごとの純行政的な側面に度はずれに熱中する傾きがある。
現在の中央委員会のこのふたりのすぐれた指導者もつこういう2つの資質ふとしたことから分裂をひきおこすことになりかねない。そして、もしわが党がそれを防止する措置を講じないなら、思いがけなく分裂がおこるかもしれない」(「大会への手紙」)
(5)レーニンの死後、ソ連共産党では、ソ連の命運をめぐる大論争がたたかわされました。その中心は、西ヨーロッパの革命が挫折し、社会主義国がソ連一国だという条件のもとで、ソ連で社会主義を建設する展望があるかどうか、という問題でした。
実は、この問題は、理論的にも実践的にも、レーニンがすでに解答をあたえていた問題でした。
レーニンは、十月革命の準備中や、そのあとしばらくの時期には、ロシアが突破口となれば、やがては西ヨーロッパにも社会主義革命がひろがって、ヨーロッパ的な規模で社会主義への道を前進してゆけるという展望をもっていました。しかし、一方では、西ヨーロッパの革命の挫折と運動の退潮が現実となる、また他方では、ロシアの革命をつぶそうとした帝国主義諸国の干渉戦争も失敗して、帝国主義の包囲のなかで社会主義ロシアが存立の条件をかちとるという、以前には予想もしなかった国際状況がうまれる、こういう情勢になったときに、ロシア革命の今後の展望を真剣に探究して、ロシア一国でも社会主義にむかって前進できるし、長期の時間を必要とはするが、社会主義社会を建設できるという結論をひきだします。新経済政策は、こういう新しい展望とも結びついた計画でした。
これにたいして、トロツキーは、西ヨーロッパで革命が成功しないかぎり、ソ連での社会主義建設は不可能だという立場をとり、スターリンは、それは可能だという立場をとっての論争でしたから、問題の大局からいえば、この論争で正しい立場をとったのは、スターリンでした。
もちろん、そのことによって、一国での社会主義建設の方針として、レーニンの遺訓を否定しさり、これをスターリン・ブレジネフ型の軌道に転換させたスターリンの誤りが免罪されるものでないことは、いうまでもありません。
また、論争の内容としても、お互いにレーニンを引用しながらの論争でしたが、レーニン自身が十月革命後、情勢の変化に応じて方針を発展させたことを、論争の当事者がどちらも理解しなかったということも、特徴的でした。すなわち、トロツキーは、レーニンが西ヨーロッパの革命期待していた時期のレーニンの文章を引用して、自分の論拠にしようとする、スターリンは、これに対抗するために、レーニンは2月革命の前からすでにロシア一国での社会主義建設の可能性を確信していたという無理な議論を展開する。
いまからみると、こういう問題点もはらんでいましたが、結論についていえば、トロツキーの一国社会主義不可能論の誤りはあきらかだと思います。
(6)トロツキーは、その後、アルマアタへ、ついでソ連国外へ追放され、国外からスターリン批判を展開します。そのなかには、大量弾圧への批判など、一定の道理と根拠のある批判もあると同時に、反ファッショ人民戦線に反対するとか、誤った立場や主張も、たくさんあります。とくに、第4インタナショナルをつくる時期がきたとして、1939年に新国際組織の結成にのりだしたことは、結局は、ごく少数の雑多な分子をかきあつめただけに終わり、基本的にはトロツキーびいきの伝記作者も、これを「影法師のような組織」とよび、彼の「大失敗」の1つに数えあげています(ドイッチャー『追放された予言者・トロツキー』)。
トロツキーの役割を、歴史の局面局面でざっとスケッチしてみると、以上のようなことになります。歴史的な研究はこれからもさらにおこなわれるでしょうが、問題は、歴史の事実に即して確実な評価をおこなってゆくことにあります。スターリンの誤りがあきらかになったのだから、そのスターリンと論争していたトロツキーが全面的に正しいといった単純化をしないことが、この問題でも大事だとことを、指摘したいと思います。」