ヤスさんからすれば、私の投稿が困ったもんだということのようですが、私から言わせてもヤスさんには何を言っても通じないのかなぁ、懲りない面々だということになります。今回は編集部の方でも「一定の配慮を求める」ということのようですから、これを字句通りに受けとめると私が配慮せねばならないということになるので
しょうか。とすれば、自主撤退の日程が差し迫ってきたということになりますが、出来れば一応構図上完結目前になっておりますので後少し本投稿を含めて三編だけ投稿させて下さい。
ヤスさんがどのような方か想像するしか有りませんが、前回も指摘したつもりですが、妙に気になる文面を自覚なしに書き連ねている様子が伺えます(挑発だとは思いますが、乗ってみましょう。歴史に命を預けているつもりですから)。私を、「『日本共産党を含んだ運動による日本の社会主義的変革』を目指しているとは思えない人」とみなしているようですが、なるほど「日本共産党を含んだ運動」ということを絶対条件にはしていないという意味ではヤスさんと立場が違うかも知れませんね。ただし、「日本の社会主義的変革を目指しているとは思えない人」と決めつけるのは如何でしょうか。この両句は必ずしも=ではありません。従って、漠然とした基準でそういう決めつけが出来る精神はオカシクないですか、と再び問うてみたくなります。
「反社会主義や反共主義の立場で民主主義を説く論者は、右転落した学者を筆頭に、世の中に掃いて捨てるほどいます」という文章も例によってヒドイですねぇ。私の立場がそうであるかどうかは別にして、「反社会主義や反共主義の立場で民主主義を説く論者」もいてこそ「民主主義」のように思えますがそんなにイケナイことですかぁ。その立場がなぜ「右転落」になるのですか。「転落」という表現は好きくありません。誰がどういう基準で人様を「右」だとか「転落」などと決めつけうるのですかぁ。「左」に寄れば左翼日和見というのでしょうし、いつからこんな不作法な基準を弄んで恥じない論法が横行しはじめたのでしょう。私は、現下のような党運動を盲目的に推進したり支持したりしている者から「右」だとか「転落」などと決めつけられるのは笑止千万な気持ちです。「世の中に掃いて捨てるほどいます」という表現も品がないですねぇ。「犬が吠えても歴史は進む」という表現も品がありませんが、同等の感性が伝わって参ります。
「私が懸念するのは、『さざ波通信』が獲得すべきであろう、社会主義日本を志す共産党員(および非共産党員の社会主義者)が『さざ波通信』に偏見を持ってしまうことです」と心配されるのなら、なぜ新日和見事件の被査問者達が党離れをせざるを得なかったのかについて「あたら惜しいこと」とご心配されないのですか。その他多々党離れされた方がおられますが、同じように「あたら惜しいこと」とご心配なされて原因の解明に向かわないのでしょぉ。新日和見事件の場合、川上氏・油井氏・早乙女氏その他多くの方に何か問題がありましたかねぇ。今私なりに検証していますが、両成敗にはなり得ぬ党中央側による一方的な過干渉のように思えますがね。
最後に。私のHP開設をあまり早期にあてにしないで下さいね。気持ちは充分ありますが見通しは立っていませんので。それと「ヒマと精力は持て余しているようですし」という表現もあまり気持ちの良いものではありませんね。推測は構わないと思いますが、ある程度当たっていないとね。お答えさせていただきますと、精力はあるかも知れません。「ヒマを持て余している」かどうかまで見通しされているとしたら、監視されているようで嫌でございます。こういう表現を易々とする精神の者から党を愛しているからこそ一言申すとか、「日本の社会主義的変革を目指している」とか言われたらむしろ気持ち悪いですね。