ずいぶん長くごぶさたしています。HPは拝見していますが、なかなか投稿を書く時間がなく、もっぱらウオッチングをしています。6月1日のプロテストマンさんの投稿を大変興味深く読ませていただきました。
共産党本部の変質が急速に進行していることは、「赤旗」を含めた各紙を読み、末端党組織に所属する一党員として現場をながめればだいたいは察しがつきます。とめどなく進む変質に対して異議申し立てをすべきことが大切であるとは思いつつ、私自身の長い党生活の経験から、党組織を通じて発言するだけでは、党内民主主義の現状からして、見通しは明るいとは思えません。したがって、わずかな可処分時間をさいて投稿をしてきましたが、いまではさらにその時間も思うに任せません。
Y記者「そういう印象を持つのは、あなたぐらいでしょう。事実、そんな抗議の電話を受けたのは、今日あなたが初めてですよ」。
Y記者がもし本気でそう考えているとしたら、大きな間違いであることだけは言っておかなければならないと思って投稿します。「そういう印象を持つ」のはプロテストマンさんだけではありません。志位氏がまだ小学生であった三十数年前に入党し、現在もまだ日本共産党員であり続ける私自身もまったくそういう印象を抱いています。
ときあたかも衆議院が解散されました。小渕政権にしても森政権にしても、自民党支配の歴史の中で見ても、能力も見識も疑わざるを得ないような宰相が続いています。総選挙の結果がどうなるかはわかりませんが、少なくとも、自民党が「勝てる」という見通しもなく、驚くほどの低支持率の中で解散をせざるを得なくなったことは、自民党の支配が根底から揺らぎ、あるいはこれが自民党支配に終止符を打ち、日本の政治体制に激変が生じるかもしれないことを予感させます。
自民党支配に終止符を打つために私は努力をします。しかし、その結果がかつての細川内閣や村山内閣であることを期待しているからではありません。また、ユーゴ空爆に荷担するようなヨーロッパの政府と大差ない政府も期待しません。
社会主義を目指す政党が、ある時代には「ルールある資本主義」をつくり出す仕事をリードし、さらに時代が進んで、その政党がこんどは社会主義への移行をリードできるなどということは空想に過ぎません。社会が根本的に変わるときにはそれをリードする政治勢力もまた交代するはずです。
働くところさえない、老後の生活の見通しも立たない、明日の生活の糧にも窮するような社会の下層の人たち、そして、毎日、生産点で厳しい労働を強いられ、資本の支配に呻吟する人たちの視点で社会の変革を考えるのが共産党ではなかったのでしょうか。こういう人たちと資本家の間にどうして90%まで一致することがありえるのでしょうか。
仕事を失うまいとすれば、みずからが働く企業が存続しなければなりません。その企業は、おそろしいほどの競争にさらされ、コストの削減を強いられます。この狂気の競争は一国の中だけのことではありません。日本だけが「ルールある資本主義」にどうやって移行できるのでしょうか。そうすれば日本資本主義が敗北するだけであって、そのようなことは日本の資本主義が許容するところではないでしょう。掲げるべきは「資本主義の枠を破ること」ではないでしょうか。
資本主義の枠内における改革や改良は「科学的社会主義」を標榜する政党が政権に参加しなくても、それはいわば支配階級の「譲歩」ですから、民衆の運動を基本にすれば可能です。日本の民衆の運動は実際にそういう経験を持っています。むしろ、社会の根本的変革を目指す勢力が厳然として存在していることの方が、改革や改良を実現する上でもはるかに有効でしょう。「みんながそろって資本主義の枠内で…」という状況でどうして支配階級の譲歩を引き出すことができるのでしょうか。
私の身の回りを見回しても、支部がもう基本的に機能を喪失しているところがたくさんあります。結集して活動している党員が2、3人しかいないところがめずらしくありません。党の会議や集会などに行っても、白髪のない人はほとんどいません。地方党組織の専従党員も年々縮小しています。共産党の議席が増えても、新聞がカラー印刷になっても、壮大な党本部ができるにしても、党そのものは「壮大な立ち枯れ」に近い状態になっていることを直視しなければなりません。