日本共産党の政権参加に関わって、党名・綱領の改定について、話題にされています。党名や綱領について、決定するのはその党(員)自身でありますが、外部からの一意見として、見解を述べてみたいと思います。
1.日本共産党の綱領路線が、基本的に確定した60年代初頭の現実を背景にすれば、綱領のいうところの社会主義とは何か、社会主義に至るプロセスとしてどのような戦略をもっているのかは、明確でした。
しかし、現時点での現実を背景にして、それはあまりに抽象的になっています。少なくとも日本共産党綱領のいう「社会主義的計画経済」(これはマルクスにもない、ソ連流マルクス・レーニン主義の用語です)が現在必要な社会主義でしょうか。「国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる「統制経済」」は無縁だといっても、市場経済を否定するのかどうかははっきり言わない。少なくとも綱領確定時の約40年前には「計画経済」とは、市場を否定した「社会主義的統制経済」以外の何ものでもなかったのです。(「神の国」が約60年前の理念を背負っているのと同じ面も)
少なくとも日々の労働(ビジネスマン労働者として、農民として、自営業者としてetc)や消費生活において、市場メカニズムの中で生活している人々に対して、社会主義とは何かを十分に説明できないような綱領を堅持するというのは政党として誠実な態度なのでしょうか。
しらじらしく「綱領路線は変えません」などと一方ではいいながら、「科学的」だとか「社会科学」を口にし、他方で無原則的かつ不器用に民主党等にすり寄る共産党指導部というのは、やはりスターリニズムを克服できていないと感じてしまいます(ただし、「さざ波」編集部と異なり、自衛隊についてなど結論としては不破指導部の見解を私は支持しますが)。
2.日本共産党は、今の資本主義の危機や矛盾の解決策として、社会主義を対置するのではなく、将来の問題としての社会主義を強調するというスタンスをずっととってきています。その事実自体が「社会主義」(=綱領路線の、つまりマルクス・レーニン主義の)無効性を物語っているように思えます。
3.現在の共産党員のみなさんは、まわりの人に自分の政治信条を語る際、「共産主義者である」と言えますか。「私は仏教徒です」というように。
共産党という名称にこだわる理由はあるのでしょうか。
私は共産主義思想の意義、ましてやマルクスの共産主義の歴史的意義を認めないわけではありません。しかし、「共産主義」という社会のデザインを描けない以上、やはりそれは他の共産主義と同じく、彼岸的理想像、あるいは思想に過ぎません。それを党名に掲げることにこだわる必要があるのでしょうか。
4.伝統的なマルクス主義の用語でいえば、現在の不破指導部が、何度も世界史の局面であらわれたようなスターリニストとしての右翼日和見主義路線をとっていることは、別に驚くこととは思いません。が、その路線が現在の日本社会のどのような客観的基盤に基づいているのかということは、重要 だと思います。たしかに日本が経済大国となり新自由主義が必然化する現実に基づいていると思いますが、他方では、これまでの「科学的?社会主義」・マルクス主義などの革命論・社会主義論・資本主義論等が無力化せざるをえない(汲み尽くせていない)ような資本主義の現実もあるのだと思います。
P.S.総選挙で、日本共産党が伸び悩みそうですが、それは、もちろん「反共謀略」(といような言葉を使わず「怪文書」といった方がよいと思うのですが)が功を奏したということはあるでしょうが、むしろ「ソフト路線」そのものに対する「さざ波」的な批判票がむしろ社民党などに流れたのではないかという感じもします。しかし、根本的には、「ソフト路線」と、社会をどのようにしたいのかというビジョン(綱領で示されるべき)がはっきりしないということも大きいのではないでしょうか。