選挙が終わって、結果が思惑からはずれてしまったら、思いきり、がっかりしましょう。徹底的に落ち込みましょう。この国には民主主義なんてもうないのか、と悔しがりましょう。支持政党なんて、もう絶対に応援しないぞと、見限りましょう。そうして、もうこんな国はどうなっても構わん、俺の責任ではない、と開きなおりましょう。
やがて少し時間がたって、「やっぱり自分が応援しなけりゃ、何も起こらん」という気持ちが起きてきたら、そのころは、新しい運動の展開に希望を託すことができると、思います。
今回の衆議院選挙をとおして(かくいう私も四回のびらまき、電話600軒ほかでお手伝いをしてしまったが)前々から、気になっていたことが自分自身のなかにハッキリと見えてきました。
それは実に単純明解なことです。
日本共産党から、そのカリスマ性であるべき「恐ろしさ」がまったく、消滅してしまったことなのです。赤旗の血の色がなにを歴史の証人として語るか、知らない人はいないと思いますが、思っていましたが、事実、選挙期間中に、「知らない人々」に何度も遭遇しました。
そのひとにとっては、赤い旗は、ただの赤い色の旗にすぎませんでした。不破さんの責任でしょうか? 志位さんのイメージでしょうか? すくなくとも、共産党のかつて深く深く宿していた、この国におけるアウトローとしてのいざとなったら、何をするか分からないを思わせる恐さ、畏さに通じるものですが、がいまやすっかりなくなってしまいました。
その限りにおいては、日本共産党は、自公保からみて安全この上もない、マイナーな政党(たった20人)にすぎません。
かつて、こどものころ、「おやじ」は恐い存在でした。日本共産党もこの恐ろしさを秘めていた政治集団であったように思えます。
この恐さ=畏怖こそが、共産党が、他の政党にない独自性、実行力、正義、情熱そういうもろもろのものを包含していた、マイナーであるけれども、けっしてほおっておけない恐ろしさをして、国民を引き付けていたエネルギーではなかったでしょうか。
いま、日本共産党に、なめられっぱなしの日本共産党にこの「おやじのげんこつ」の恐ろしさが、一体どこにあるでしょうか?
共産党に、恐ろしさを、取り戻すことなしに多くの国民の支持など望むべくもありません。