久しぶりというか多分初めてまともに共産党のホームページを見て考えたことの各論です。
第一:現在の党の歴史はずっと新しいことをみとめるべきである。
いったいどれだけの党員が「今も」61年の再建以前の方針が正しかったという「少数意見」を持っているか、考えましょう。
常識的には限りなくゼロに近い、と言うところでしょう。とすれば、現在の党はそれ以前のものとは別物であるはずです。唯一意見の違いが表面化しそうなのが、戦前の評価です。しかし、コミンテルン日本支部として、コミンテルンの否定面を批判する責任があるのか、他国のこととして片づけてよいのかはまた問題ですが、少なくともコミンテルン日本支部と言うあり方は現在のものとは根本的に違うわけですから、その「正当な後継者」であるかのように振る舞う必要はないと思います。
再建後の党が今の共産党であるとすることで、反動勢力からの誹謗や公安当局の不当な活動の正当性を奪うことができます。超憲法的命令により日本国憲法の執行が停止された戦後の不幸な一時期に、日本国憲法下で成立した政府を暴力的手段を排除せずに転覆しようとした団体に属した構成員は、新社会党、社民党はもちろん、民主党、公明党、自民党にさえもいます。その中でどうして共産党だけが監視団体であり続けるのか、もちろん基本は公安当局の不当な恣意的運用ですが、その根拠をたつことは今後にとって重要と考えます。共産党が公安調査庁の活動そのものが憲法違反であるとの裁判を起こさないのは、かつてはそれを認める反動的判決が出るのをおそれてのことだったと思いますが、今やなんとしても市民生活を脅かすあの機関の息の根を止める必要があります。それは単に共産党のためだけでなく国民への責任といえます。(その意味で、自分が監視対象であったことを知りながらなお、自分が首相であるときにその廃止をせず、神戸の被災者を監視させていた最高責任者である村山元首相と社会党の責任は重大です。)
第二:伝家の宝刀としての民主集中制
このページでは不評の民主集中制ですが、私は共産党が常に支配層との協調を指向する政党にだけはならない限り、この規定は残しておいた方がよい、ただし、刑法の内乱罪と同様、決して発動されることがない規定として、と考えています。以下その理由を述べます。
先進国であっても場合によっては支配層との対立から支配層が非合法手段で暴力的虐殺をすることがあります。戦後ヨーロッパがチャーチルとスターリンの密約で分割されたとき、抵抗運動が強かった国はフランス・イタリア・ギリシアでした。ナチと戦っていたわけですから当然武器は持っています。フランスとイタリアでは運動の中核であった共産党が占領軍に武器を明け渡すことという指令を忠実に守って、戦後に平和的に移行できました(今革命をすれば必ず成功するのに、どうしてやらないのだ、と言う一般党員の声を封殺してです)。ギリシアでは独立民族主義運動が強く、武装解除を承諾せず、英軍との戦いになりました。共産党も連帯を重んじて戦いに加わりました。結果、大弾圧が加えられ、民主主義の回復まで30年を要しました。
戦時だけではなく、また後進国だけでもなく、政府に弱点があり、支配層が必要と認めるならクーデターが行なわれることはチリの例が示しています。
こうしたクリティカルな場面では、一歩間違うと本当の戦いです。一部の党員がこの際抵抗しようなどと外部に表明すればどういう不幸な結果を招くか、一致団結して事に当たること(もちろん情勢判断が間違っていれば余計大変ですが)の重要性を示しています。
より身近な例は、社会党青年組織の崩壊です。70年前後、暴力分子(本物です、念のため)は革新政党への浸透を図り、共産党への潜入には失敗しましたが、統制のない社会党への潜入に成功し、組織を私物化分裂させています。
もちろん今はこのような情勢では全然ありません。このような時代に民主集中制を日常的に振りかざして意見交流を妨げるのはアナクロニズムです。ですから、「死文化」させるのがよいと思います。
またこのことと運営の民主化、権利の擁護とは別物です。近代社会に存立する政党である限り、これらは当然のことでしょう。この点で気にかかるのはむしろ当編集部の発行している通信の記述です。12号において、萩原氏を「官僚主義、民族主義、改良主義のこの3者間の内的な結びつきを理解することができず、最初の1つと残り2つを機械的に切り離すことができると信じている。」と批判していますが、歴史的にも論理的にもこれらは別のものです。民主的な組織運営は決して何かの目的のために必要とされるのではなく、近代社会に存在し浸透しようとする組織の原則であり、近代社会で広く受容される前提です。
第三:共産党は急には変わらないが確実に変わるはず
最後に、もうかなり前に「共産党だけ変えようとしても無理」と言う趣旨の投稿をしたのとのあわせての補足です。
今の共産党には、古くは「宮本修正主義」とたもとを分かち山にこもった経験のある人や、日本の対米従属に怒り、共産党こそ国民の利益の代表だと信じて活動した人、左右の暴力分子(何度も書きますが、本物です)の無法への怒りから参加した人、早く「教条的な」宮本(元)委員長->議長に完全に退いてもらって日本の現実的な民主的改革をと願っていた人など、世代や立場の違う多様な人がいると思います。こういう大きな組織を変えるには時間が必要です。
今の執行部には確かに人材がいないように見えます。多分それは宮本体制末期に柔軟な考えを持った人が離れていったのと、その後不破体制下で旧来の路線の支持者が執行部から離れ、代わりの人材が育っていないせいと考えられます。しかし根本にはマルクス主義政党の持つ組織的体質があります。
共産党は公式にはマルクス主義政党ではなく、「科学的社会主義」の政党ですから、それに即していえば、科学的社会主義におけるマルクスまでさかのぼることができる否定的な面に目を向けるということになるのでしょう、世間でいうマルクス主義の放棄ないしは克服なしには官僚的体質の克服は困難と考えられます(今年になってやっと公式にレーニンの批判をしたと言って自慢しているようではだめです)。つい先に投稿した総論で述べた、前衛党規定をはじめとする観念的な規定は、社会主義運動がそのはじめから持っていたものです。そして今や、「唯一の先進的集団が、外部から」国民に宣伝するなどという独善的行動なしに多様な方法で社会運動を進める段階にあります。
私は共産党がそのように変化していくことを願っていますし、反動勢力の謀略さえなければ現代社会はそういう方向への準備をしてくれると考えています。(だから余計に公安や盗聴法に腹が立つのです)。いまや共産党の大きな力は国民にとっても大切なな宝です。だから、できるだけ意見の違う人の脱落なしに少しずつ変化して欲しいと考えています。小さな世界で喧嘩したあげくに排除したり、出ていったり、まして解散なんていうことになると、今までの期待をどうしてくれるという気になります。社会主義革命と違ってこちらの方は、外の現実に存在する一般社会の財産を共有しようということですから、組織改革の「改良主義」とでもいうべきものは可能だと思います。