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やはり規約は変えた方がよい

2000/7/28 やや、40代

 共産党の方ではどう判断するかわかりませんが、私は、自分が入党しようという差し迫った動機を持たないものが政党の規約のことを論ずるのは、節度が必要と判断しますから、なるべく普通の世間話のつもりで書きますが、一部に行き過ぎた点があればご容赦ください。
 今度大会が開かれるそうですが、それへの期待を込めてです。
 ホームページで改訂された規約の方も読みました。正直これは改悪だと思いました。「誹謗・中傷」は討議対象外とかいったい誰が判断するのか、除名と同じことを本人と連絡が取れないときの整理方法・除籍でできるとはどういうことなのか。宮本議長引退・柔軟路線と同時にこんな改正をするとは、何かよくないことを連想させる抱き合わせです。緊急に元に戻して引き続き改訂作業にはいった方がよいのではないでしょうか。
 こう言うのは日本社会視点での費用効果を考えてのことです。綱領の方はまだ間違ってればなおすことが容易です。またその枠内で柔軟に対応することもできます。しかしこういう規定は少数意見者排除の道具として機能します。共産党の中にあって少数意見を持ち続ける人は、その立場はどうであれ、普通以上に強い意志を持った人であると考えられます。しかも決して数人などというレベルでの少数ではあり得ません。口汚い罵り(仮にそんなものがあったとしても)を理由にそれを排除すれば、これによって得られる平穏さや表面上の団結という便益に比べて、実際に起こり得るべき権利侵害や離党の損失ははかりしれず、さらにそれをおそれて入党をためらう人が確実に存在しますから、害の方が遙かに大きいです。
 私は日本共産党は事実上前衛党ではないし、今後それを徹底させる必要があると考えていますが、少なくとも当面最大の先進組織であることは確かです。ここが小さくなることは国民の損失です。私なりに疑問に思うことがあって調べてみて感じるのですが、ここ25年の間の除名除籍の特徴は、その理由がよくわからないと言うことです。やめた後に自分の受けた被害について激しく抗議する例はありますが、ではそもそも意見の対立とか何が違っていたのかよくわからないのです。考えた結果、そもそも大した違いなど存在していなかった、単に前衛党の建前を守るためと、誰かが意図的にかまたは制度疲労というべき複合作用でかは別にして、民主集中制が悪い方向で作用したことにつきるのではないか、と思うのですがどうでしょう。
 前衛党が間違いだという議論は共産党に興味を持った人なら知っていると思いますが、簡単に書きます。甲という党があり、乙というそれ以外の党や集団があります。甲は前衛政党であり、(しばしば唯一の)人民のもっとも先進的な部分である、という規定が前衛規定ですね。しかし唯物論の立場からしても、それが担保される保証は何もないのです。たとえば今の世の中で、ある党は無駄な公共事業を減らして債務を減らそうとしている、他方ある党はあえて赤字には目をつぶって軍縮や福祉(これら自身は一時的に支出増要因)に力を入れようとしているとします。さて事前にどちらが「先進的」かと問われれば、誰にもわかりません。それは後で決着することとしか言いようがありません。同じことは過去にさかのぼって、軍国主義体制下で侵略戦争を阻止する方法は何であったか、いやそもそもそんな方法があったのかということも含めて、この問題などでは今でもわからないでしょう。  努力目標として先進的な党になるよう常に点検し努力しなければならない、というなら話は別です。しかし建前上事前にも事後にも前衛ということになってますから、何か論理一貫しない問題が起きたとき、我が党は昔からそういっていた、と事実を変えなくてはなりません。そのために大した間違いをしてない人や全然間違ったことをしてない人が、実は私が間違ってました、と言わなければならなくなります。時にそれは絶対無理なこじつけになり、当事者の犠牲的精神の限界を超え、また国民に馬鹿にされる説明になります。
 共産党が過去の誤りをなかなか認められないのも、それを行おうとすれば必ずこうした過程を伴い、内部組織を痛めてしまうからだと推測しています。ですから、誤りを点検し、正していくためにも前衛規定は有害です。
 以上、官僚制、民主的運営の欠如にはこの根本問題があるので、前衛党規定をやめなければならない、と言うのが要旨です。

 ここまで書いたところで、民主集中制のどこが問題かをすでに水田洋氏が(彼にしては大変珍しく)明快に書いているのを発見しました。民主集中制とは結局多数決と全員による実行(この場合少数派はどの程度の貢献を要求されるのか議論があり得る)、その決定内容に特定のルート以外では議論しないという一般社会とは異なるものも含むそれである。政党である以上そういう場面があり得ることは想像できる、しかしそれはあくまで非常時であって、決して民主集中制の原則などというものにはなり得ないはずである。そもそもなぜ少数派が存在しうるか。それは本来議論の中からしか生まれないのではないか。とすればその過程を制限していることは、はじめから少数者の存在を特殊なものとしてとらえ、党の決定は常に正しいという前提がなければならない。それを担保するのが前衛規定である。(ここから後はまたいつもの水田氏流の文学的表現に変わるので省略。既述の私の説明でご理解ください)。記憶に頼って書いているので、正確ではないと思いますが、おおむねこういう内容です。(水田氏は具体的には丸山真男批判を念頭に置いています。共産党の学者だけを集めて多数決をとれば、ほぼ全員一致で共産党の批判は間違っているということになると断言できる、しかし共産党はなお批判を続けている。それはこの特殊な多数決主義のせいである)。
 非常時には、討論と情報の特定ルート外への伝達を制限する一方、実行は無条件にという民主集中制が必要としても、平時は単純に民主制でよいのではないかと思います。また今の規約には強制力を持つ一種の法としては不正確な用法がたくさんあります。個人を党の上に置かずとか、少数は多数に従い、とか、極端な例では「党外」の定義が普通の日本語と違うというのもあります。前の二つなどは倫理規定であって、法的性格を持つものではあり得ない(近代社会では行動でなく内面の問題で強制されることはあってはならない)ので、党員の努力目標の所に書けばすむことです(ここで一緒に書いてある下級は上級に従い、は法的に再解釈して、上級機関と下級機関とことなる決定をしたとき、協議を尽くしても最終的に一致しないときは上級機関の決定に従うとするなら、つまりは支部は地方自治体のようなものではないということで、よく使う「近代政党として当たり前」の原則ですね。少数は多数に従い、も「当たり前の原則」としてだけ解釈すれば、議決は多数決である、ということだけです)。
 たとえば「党員は国民から人間として尊敬され、国民の負託に答えるよう常に自己啓発を怠らず、より高い評価を得るよう努めねばならない」「党員は自己中心的であってはならず、党内外を問わず他人の意見に謙虚に耳を傾け、集団的活動に積極的に参加するよう努めなければならない」以下だんだん(今もある会議への参加権だとか純粋に法的な)権利・義務関係に進んで、そこで日本の経験に照らして忘れてならないのは党員の個人情報は党員個人に属するという原則の確認です(かつてのレッドパージでは党自身が党員名簿を占領軍に提出したことがパージの時「効果的に」使われてしまいました)。それが終わった後で、別に、組織の決定の方法、というようなところで、「決定は原則として多数決である。審議には十分な討論を必要とする。3分の2の多数で過重多数決をとることを決めることができる(以下細かいこと)」「緊急の場合、3分の2以上の多数で会議及び討議内容を非公開にすることができる。ただし事後速やかに上級機関の同じく3分の2の多数決による承認を受けなければならない」「3分の2の多数で全員による実行を議決できる(以下同じ)」「全国において前二条の決定を行ったときは速やかに全党員に通知する。」「(これら民主集中制の)一回の議決の有効期間は6ヶ月を最長とする。引き続き行うときは再議決しなければならない。」(民主集中制の「原則化」の制限)など、どうでしょう。以前の投稿で概念的には民主集中制の死文化がよいとを書きましたが、実際にはと考えてみるとほとんど全面的に書き換えるしかないようです。
 共産党の現場の人たちは、道理を尽くせばこれくらいのことはわかってくれると思いますが、これも前書いたように、実際には急には難しいと思います。しかしこういう変化なしには確実に、多数者革命どころでない、少数者政党になっていきます。従ってゆっくりとでもこう変わらざるを得ないし、それならまだ勢いのある今のうちになるべく急いだ方がよいと思われます。