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一般投稿欄

「マルクス批判」の無内容性と右翼自由主義者

2000/7/4 丸木思案、20代、学生

 「琵琶湖太郎」なる人物による「マルクス批判」(7月1日付投稿)であるが、この人物によれば、マルクス本人や「マルクス主義」を批判の俎上にのせ、唯物論や搾取論には「一定の真理(相対性真理か?)」があるなどと言っておきながら、<資本=賃労働>の必然的産物とも言える階級意識(ただし、「土台=上部構造論」的発想ではない)から具体化する階級闘争論、市場把握と資本主義観、史的唯物論(かの有名な教科書的「5段階発展論」か?)や国家論といったマルクス社会科学の主要タームを、「根本的に誤っている」と罵倒している。
 氏によって4つに分けて言われているものは、すでに単なる右翼自由主義者の自然淘汰観や、社会的形成物としてのプロレタリア化、傾向的窮乏化をまったく考慮に入れない無神経さであり、文書溺愛的オタク主義的発想以外の何物でもなく、理論としては噴飯ものである。以下、ざっとそれらを振り返ることとするが、「1」の「労働者階級は資本主義によって多大な利益」を享受しているとあるが、実際には資本家=経営者層は、もっと巨大な「利潤」のカタマリを「架空資本」に転化させており、もっと相対的基準で把握すべき事柄で、それこそ「剰余価値論」の次元である。
 「2」のたんなる市場観、では全ての構成員が参加、という驚くべき新古典派的妄想・現実乖離をみせて、動向の「予測不可能」性を強調しているが、マルクスにおいては「市場経済=物象的交換過程」の「無理」と人類知の被制限性、という歴史過程を最も強調している。
 「3」の原始共同体・共同態の普遍的ありようとその限界性を社会形成過程と社会意識そのものが、諸個人の新たなアソツィアツィオンを論理的に形成する、という能動態は「宗教」の類ではあり得ない。
 「4」の「(現存の)警察・消防・学校(?)・役所(?)」が「永遠の如く」存続するという役人的傲慢さが滲み出ている。さらに氏は、マルクス本人/マルクス主義をまとめて「第二次空想的社会主義」などと息巻いている。
 まとめとして「資本主義の持つ強力な推進エンジンを発揮」させるのではなく、そこにこそ主要な反作用が存在し、「経済的搾取を可能な限り無くす」という実践はまさに、労働の全面的開花ではないのか? そして「左派勢力によって構築」する、あるいはさせるには、何よりも自らがもっと現実世界に深く根ざしたマトモな人格者でなければ、何も自己産出できないであろう。