古いことで恐縮ですが、不破氏がレーニン批判したときの拒否反応を一つ発見して思ったことを書きます。新しいところでは不破氏は小選挙区で戦ったらとかいうのとも、地方議員にもっと時間をとかいうのとも関係するかもしれません。
>マルクス、エンゲルス、レーニンの思想には共通したものがあり(「不破氏が今道を踏み誤ろうとしている」(党員投稿欄:1/16))
評価は違いますが、認識としては、「部分的に共通の物がある」という点で一致します。最初の投稿の後、ここや他のページで不破氏がマルクスを含め克服しなければならないものを再検討する仕事をすると言っているのを見て、私は「なかなかやるな」と感心した口です。
>不破氏は何をしたか。東京大学を出て、わずかな期間鉄鋼労連で書記をして、党中央勤務、すぐに中央役員、書記局長、国会議員となった。この社会においても日の当たるエリートとしての人生を歩んできた彼に、いつ、どこで社会の下層の人々とふれあう機会があったのか。
私もかつて東大卒に生理的嫌悪感をもっていて、学生時代に視野の狭さを批判されたことがあり、今日では反省しています。
(別記事で書いたので簡単に)使用人をもっていたマルクスや、権力を握る前から自慢できない行い(うーん、マイルドな表現)をしていたレーニンと比べて、不破氏の資質を論じると、どうとも言い難いものがあります。時代も規模も違いますから。本人は、私の記憶に間違いがなければ、自由主義的な教師の子弟ですね。東大時代は有名な安東仁兵衛らの「つるし上げ」ー世間ではもっとひどい特殊用語で表現されるものーにあったりしてるんですね。その後はよく知らないですが、あの時期せっかく東大を出て一応ちゃんと就職できたのに、まもなく共産党の専従になるというのは将来を捨てることと同義ではという気がするんですが、違いますか。(余談ながら自由民権運動のおじいさん、大正デモクラシー運動のお父さん、本人は戦後民主化の申し子というのは革新高揚期の若手議員さんに多いパターンですね)。近代の大組織の指導者が知的なのは冷静に考えればある意味で当然と思うんですが、どうでしょう。貧しい中から身を起こしたという神話がないと大衆的支持が得られないというところに、むしろ深い問題があります。(みんな貧しかった不破氏の世代や、まだかろうじて・・・文字化け部分・・・。
過去のパターン化された思考様式では対応できない今日、政党指導者には以前にもまして広い教養と論理的思考力が要求されるようになり、いわば不破氏のようなタイプの人は必要な人材であります。私はやや大胆に、おそらく不破氏はまもなく自分が引退する時期が来ることをかなり早い段階で悟っており、その前に古い指導者に先に引退してもらい、新しい党の基盤を作っておきたいがためにかなり無理をしているのだと推測しています。しかし、後をになうべき世代に人材がいません。ここが大きな問題です。(不破氏が健康問題で一時職務から離れた頃は、早く宮本氏が引退して上田副委員長が委員長になればいいのにと思ってました。夢想というものです)。振り返るとよく宮本議長の引退まで踏みとどまってくれたものです。小選挙区の運動は彼の体では無理だと思います。よく不破氏の姿勢(文字通りの体の姿勢)がだらしないとかいうのを聞くんですが、あれも仕方がないと思います。病気のことは当時は結構大きなニュースだったと思うんですが、知らない人が増えているんですね。(「笑い」、とかいうのも若い頃は、多分ストレスからと予想しますが、引きつってましたが・・・文字化け部分・・・。
人材不足の構造的問題の一つは前衛党の呪縛であることは前の投稿で述べました。また別の面からいうと、党内というか、広く左翼内というかでのあまり本質的でない評価のされ方に問題があったのではないかと思います。つまり、いかに正しいことを主張し実行してきたかではなく、いかに犠牲を払ってきたかという尺度で物事を見ようとする態度です。こんな圧力の中では政党人は教養、論理、その他の心の余裕をなくし、ひたすら犠牲的行動で身の証を立てなくてはなりません。
何度もいいますが、今の時代の政党指導者が(ましてや仮にも常に正しいことを要求される「前衛党」であります)物事を論理的に考える訓練を受けていることは当たり前であって、それらしからぬ発言があることの方が問題なのです。議会に進出しようというのであれば、いわゆる名望性も必要ですし、たまに議会的妥協について無茶を言ってくる党組織にちゃんと物を言えるためには、少々の小金持ちであってもいいのではないかと思います。もちろん、公然化した段階でいろいろ障害がありますし、落選となると大変ですしね、備えは必要ですよ。実際地方の共産党のベテラン議員さんは地域の名望家か、そうでなければ労組出身ですね。
いったいいつの頃からか、共産党はいわゆる専従の人を多く候補に立てるようになりました。私が子供の頃(古い!)は、――都市部では地方議員出身というルートがあり得ました(今も多い)が――まず何か文化活動・住民運動などをやってきた人、立派な人物という地域の評価を得てリタイアした人(これらの場合は次の選挙でもまた挑戦する事が多い)、いなければ組合活動家を落下傘で(この場合は落選後生活の面倒を見ないといけないこともある)、いちばん最後に現役の「政党役員」の人で、それは即「戦う気がない」(が、誰か候補者を出さなければならない)ことを意味しました。今でも地方議員の経験もない専従の人を小選挙区単独で立てるのを見ると、勝つ気がないのか、と判断してしまいます。もっとも「政党職員」を議員にというのはイギリスの保守党などでもある「近代的」なルートの一つなので、一概に悪いとはいえません。問題はその人が普段どういうことをしてどういう能力を備えているかということです。
私は必ずしも若い人が指導者にふさわしいとは考えません。もっと余裕を持って人格識見を身につけてから政党の幹部なり、議員なりにはなって欲しいです。それでも諸事情で若い議員さんはいますから、議員になったとたん、自由時間がなくなるとかいうのは絶対改善される必要があります。また今後も専従の人以外に担い手がいない状況が続くようなら、少なくとも将来選挙に勝って議員になろうという専従さんには、「階級意識」や「犠牲的精神」だけでなく、幅広い教養と論理的思考力と誰の意見でも耳を傾けられる度量の広さとを身につけて欲しいです(専従さんに、幹部候補とそうでない人の区別があっても別におかしくない。選別の判断を間違うと大変ですが。若い指導者を望む人はそれが早期のエリート選別と表裏一体であることを認識した方がよいでしょう)。そのためには精神論だけではだめです。本人の資質に加えて、お金と自由時間がいります。やることさえ間違ってなければ、共産党幹部は「エリート」、どころか、「お金持ち」であっても、大いに結構だと思います。