逐次反論は前回で終わったので、生産的な反論をします。
この方の論理に従うと、おそらく法学博士にして「貴族」(彼自身そう名乗るのは方便で仕方なかったと弁解してますけどね)のマルクスや「資本家」エンゲルスも「特権階層」で、その立場が露骨に現れていると言うべきでしょうね。
それならそれで一貫してますから、氏が別の記事で機械的決定論を批判しているのはなぜだろうという疑問を呈しつつ、私はそういう立場ではないとだけ言っておきます。
さらに、仮に貴族マルクスや資本家エンゲルスはその階級的立場から間違っており、当時の大学教授は確かに個々人を見れば多くはミドルクラスだった(特権階層ではないです。当時の上流階級は基本的には食うための仕事などしなかったのです。だからもちろん最初のマルクスやエンゲルスが特権階層だというのは皮肉です。念のため。)としても、それと今の日本の中小企業家や大学教授とを同一視するのは、置かれている地位が全く異なることを見ようとしない誤りであると思います。
幸いに日本共産党はそんな立場はとってません。独占と非独占の対立が基本になってます。それは単純な政治課題(味方が多いにこしたことはないとかいう)でそうなったのではなく、戦後日本経済の具体的分析に基づくようです。この一点だけでも戦前の機械的な党とは違います。確認してよかった。
中小企業家はさしあたり議論になってませんから、しません。またこの方が人口が多いし、日常的に交流もあるでしょうから、必要ならば「民主的企業家」の活動や意識の分析は他の方にお任せします。
大学教授や研究者一般の境遇については六法全書で国家公務員の給与に関する法律を見れば典型事例がわかりますから、調べてください。また、国立研究所研究員の任期についての法律、大学教員の任期についての法律も見てください。ただしこれではわからないのが、直前の反論で書いた確率的失業、精神的圧力、失われた時間と賃金です。今は確かにどこも厳しいですが比較の問題として、高卒、大卒は就職も比較的容易で、大多数の人が同じスタート点に立つ(幻想という説有力ですが)のに対し、大学教員は単純に大卒後5年後からスタートとはいきません。遅れやそもそも一生職がないというリスクを背負っています。
党員研究者に限らず、世の中の進歩を願い、何かしなければという研究者は大変な境遇の中、使命感だけを頼りにがんばっているのが現状ではないでしょうか。当然研究はしないといけない。あまり勉強熱心でない学生の教育を「一人でも多く、論理的に考えることができ、また感性豊かな若者が育つことの助けになるなら、世の中の役に立つことになる」と信じて(大概の場合「左翼思想」とは無関係に)屈辱的な待遇の中で教育し、住民運動や労働運動に手弁当で支援にいき、職場では資本の攻撃にあいながら組合役員を引き受けています。(私はむしろこのような自己犠牲は問題をはらんでいると思います。)
過去の記事で共産党の団結力はどこからという一連の議論がありました。これは「容共知識人」に広げても同じことになるわけです。なぜ彼らが職場でひどい屈辱と攻撃を受けても、そしてしばしば社会では右翼だけでなく味方であるはずの労働者からも攻撃や揶揄を受けながら社会進歩に背を向けずにいられるのか、不思議に思いませんか?結局、自分自身は大きな力にはなれないが(ここが実は自己犠牲に駆り立てる根元的なもの)、だいたいにおいて間違ったことはしていないし(自覚)、それならできる限りのことをやる(自己犠牲)という「よりどころ精神」としか言いようがありません。さらにそこに至る動機として、吉野氏が笑い飛ばした、出身階層や自分自身の過去の境遇という要素は無視できないと思います。(編集部も大西氏批判の中で一部同じことを違う言葉で主張されていたと理解しますが、私は階層間移動と雇用の相対的安定が革新的意識と生活保守主義という形で抵抗政党への支持につながっていたのであって、社会階層の固定化と雇用の流動化は対抗力を弱めるだろうと見ています。記事を読む限りは大西氏もそれは直接否定してないのではと思います。大西氏の・・・(文字化け部分)・・・。
現代の研究者は基本的性格付けとしては知的労働者でよいと思います。(学問の自由の主要な担い手という性格はありますが、それは生産関係とは別のものです)。実際政府は大学の自治への攻撃とともに「非基幹労働者」としての位置づけをますます強めています。一般行政職は平職員でも国家権力の一員として組み込み、逆に現業部分はいわば外注産業化するわけです。
これらのことを考えるとき、私は水田氏のように、戦後共産党に沈黙したままだったのは左翼知識人の知的怠惰である、とまで言い切ることはできません。そんなことが言えるのははじめから強い自己の独自の立場に立つ丸山氏や水田氏のようなスーパー研究者だけです。多くの研究者は不安定な労働者です。その中からとりあえず組合には入ろうとか、仕方ないから役員を引き受けようとか、そのうち危険覚悟でいろんな所に出かけたり、さらに一部の研究分野では「特殊な対象」が関係してくるわけです。本なんか書こうとしたら百万円以上自腹を切らねば出版社が引き受けません。常に人事が流動化している研究者の場合、社会に関わって(別に共産党と関わりがあるなしに関わらず)何かをやろうとするだけで「この後どうなるのか」という不安に突き当たります。不安の海の中、正面に科学的知識の軽視、右に資本の攻撃、左に知識人への無理解と戦っているとき、背後から味方であるはずの自覚的な集団に「反動」と決めつけられたら彼らの今までの自己犠牲はどうなってしまうのか。他の労働者と違って、彼らは意識活動そのものが労働であり、また事実上人生のすべてです。彼ら・・・(文字化け部分)・・・。
そのような意味では確かに(原文は市民一般について述べたもので、たまたま一般人の本がやり玉に挙げられている例を見なかったので、そう書いてないだけですが)吉野氏が勘違いして逆鱗のもとになった、研究者の書いた本(だけ?)には配慮が必要という命題は、言われてみればその通りかなと思いました。国連人権憲章でわざわざ、基本的人権と特権の保護がうたわれている意味を考えなければなりません(思い出させてくれてありがとうというべきかしら)。それを研究者の特権意識というのだという議論はサハロフ博士が「流刑」にされたのを認めないのと同じです。彼は別に完全失業にも強制労働にもあわなかった。しかし、体制への批判的態度を理由に僻地の無関係な仕事に回されソ連邦の最先端の研究者としての命を絶たれてしまったのです。これは明らかな人権侵害です。
あの引用した表現を見てこれは少しひどいかという感性を持てないのか不思議ですが、まあその程度の人なら仕方ないです。しかし、私の記事を読めば問題は、政治的に批判したいなら断りを入れるか政治的パワーを相手にすべきで(逆に言えば学問的に論争したいならそれにふさわしいスタイルですべきで)、一般人を「日本共産党と現代日本政治を考える」通信でとりあげ言葉をきわめて論難するのは公平な批判とは言えない、というものであったことがわかるはずです。吉野氏からはこの問題提起を理解しようという意欲が感じられません。吉野氏は著者ではないはずですからそのように主観的に受け止める必要もないでしょう。考えて欲しいのは、批判と言うことの意味です。(別の投稿欄の吉野氏は別人なのだろうか? いや、確かにあの吉野氏も後の方では、別の相手を最後に実際に市民的モラルさえ守らずに放逐したようだから吉野氏の反人権の立場は一貫してるのかも。そうだとしたら私は怖いからここから後はもう議論しませんといって退散しなければならない。相手の人は「へこたれてはいけません」と言ってたけど、民青くずれのボルシェビキ男氏、高坂氏、inet愛好・・・(文字化け部分)・・・。
問題を批判一般にすり替えて、研究者だけの特別扱いはしないなどといってごまかす、そういう体質をもったままではサハロフの事例を反省的に受け止めているとは思えません。