さて、まず始めの点については、どうでもよいことのように思われます。不寛容な相手が主張を聞かなかったからといってそれが一体どうしたというのでしょうか? 別に聞きたくないのならば、聞いていただかなくても結構。ただそれだけのことでしょう。あなたのかいていることはまったくの余計なお世話というものです。
次の点についてですが、私は「現実のビジョン」なき「理念」の提示を批判しているのであって、それを錯誤だ批判されることそれ自体がよく分かりません。あなたは、私のような主張は「行動の指針への無視ないし軽視、および方向性の喪失へと個人や団体をいざないかねません」と書いておられますが、「現実のビジョン」なき「理念」を吹聴してまわることの方が、あなたの指摘がよほど当てはまると思わないのですか。そもそも、単なる「妄想」ではない「理念」の提示とは「現実のビジョン」への展開が可能であってはじめて成り立つものです。理念の提示をするにしてもその理念が内実を伴ってこそ初めて意味があるのです。しかるに生産協同組合という人の場合はどうでしょうか。彼は何一つ自分の提示する「理念」の中身を説明しようとはしないではないですか。内容が存在しない「理念」であれば、「現実のビジョン」へと展開しようのないことは自明であり、こんな、空洞化した「理念」こそを「妄想」というのです。どうせ柄谷行人の『可能なるコミュニズム』などを読んで、わかったようなつもりで、うわべだけ言葉を真似ているのでしょう。だからこそ、あのような中身のない自己陶酔的な文章となってしまうのではないですか。ですから、あのようなものは「理念」の提示ではない、「理念」の提示と「現実のビジョン」は分断して考えるべきではない、という点を答えとして書いておきます。
「ひとつのアソシエーション」「自律的個別性にあって、個別者でない社会的諸個人の個体的所有」「アソシエイトした知性」、こういった言葉を使いながらその内実を明らかにせず、社会主義を云々していることを時間の無駄というべきは当然のことと思いますが。
また、「妄想」でも「存在価値がある」とのことですがどういうことでしょうか? この部分はあなたの願望的思い込以上のものには見えませんが。
あなたがそう思ったからといって、いきなりそれを私に押し付けても、批判になりますか?
最後に、生産性に乏しい、という部分に関してですが役に立たない妄想をならべることのどこに生産性を見出すのか、それを明らかにしてからそういう事は言っていただきたいですね。