どうして(2)を書く必要があるのか? それはなおちゃんさんが、某所の掲示板において、私がきれていて、自分の言うことがをまったく聞こうとしないから議論しても無駄、という内容の書き込みをしていたからです。こういった、いわば負け犬の遠吠えのようなものにまでかまう必要はないのかもしれませんが、内容について、もうちょっと説明しておくべきなのかもしれないとも思われるので、もう少し補足をしておきたいとおもいます。
「理念」であって「現実のビジョン」ではない。おまえは錯誤している、という批判については、現実へのビジョンを欠く理念など不毛である、と回答しておきました。現実への展望を持たないユートピアを吹聴してまわることなど、無責任の極みでしょう。ただし、あえて一言いっておくならば、自分個人で
ユートピアへの希望を心のうちに秘めておくこと、それ自体を否定しようとは思わない。とはいえ、他人に対してそのユートピアについて語ろうとするならば現実への展望を欠いていては、それは妄想でしかないということです。「理念」の提示は現実への展開を含んでこそ初めて行ないうるものであって、分離すること論じること自体問題がある、ということでしょう。このような答えに対して、なおちゃんさんがどのような回答を与えてくれるのか、それには非常に興味がありますね。しかし、もう一点付け加えておきたい。率直な疑問なのですが、なおちゃんさん。あなたは一体どのようにして、生産協同組合さんの「ひとつのアソシエーション」「自律的個別性にあって、個別者でない社会的諸個人の個体的所有」「アソシエイトした知性」という主張を「理念」の提示だと判断できたのでしょうか。前回にも、彼は内容について何も説明していない、よって内実なき理念は妄想である、と書いたはずですが
そもそも、内容がまったく説明されていない主張について一体どのようにあなたは判断を下すことができたのでしょうか。実に不思議なのです。この場合のみならず、生産協同組合さんの主張には内容についての説明が不可欠であるにもかかわらず、まったく説明を行なっていない主張が多々あります。内容についての説明が伴っていないからこそ、彼の文章は異常に短い、という特異性があるのですが実に無茶な話であって、そもそも、内容が明らかにされていないものなど理解の仕様がないはずです。ですから、なおちゃんさんがどのようにして、内容の明らかにされていない主張を理解し得たのか、ぜひともその点を明らかにしてほしいのです。例えば、搾取の廃絶、という主張であれば、内容の説明を省くことも許されるでしょう。搾取とは、資本家が労働者の剰余価値を収奪することだ、というぐらいの基本的な共通認識がマルクス主義者にはあるはずですから、説明をつけなくとも理解をすることはできる、ということが言えるはずです。しかしこの場合はどうでしょうか。「固体的所有」「アソシエーション」、こういった用語だけ取り上げても、そこに共通理解が存在しているといえますか。「固体的所有」をめぐっては随分と論争があったはずですし「アソシエーション」にいたっては、つい最近まで統一した訳語すらなかったではないですか。このような場合に、内容を省略して主張をすることはできないはずです。また、内容についての説明が存在していなければ、理解をすること自体が困難な主張になってしまう、ということです。しかるに、なおちゃんさんは、お前は内容について錯誤している、とおっしゃる。この点が実に不思議なのです。某所の掲示板で自己正当化を行なっているひまがあるのならば、ぜひ回答をお願いしたいと思います。
さて、もう一つ触れておかなければならない点があります。今回はなおちゃんさんの投稿から、引用しておきましょう。
「「妄想」とて なんらかの有効なアクションが伴えばりっぱに生産的たりえ、これは場合によっては「高度資本主義社会のもとじゃ 手も足も出ない」とゆー(まちがっちゃいない)現実認識よりも 存在意義があります。」
さて、なおちゃんさんはこのように主張し、私に反論をしているようですが、これは本気で反論しているつもりなのでしょうか。だとすれば、なおちゃんさんは、まったく反論などをできるような能力を持ちあわせていないということが明らかになったと判断せざるを得ないでしょう。というのも、一読すれば明らかなことですが、この主張は、まったくと言っていいほど、内容を伴っていないからです。一体どのような「有効なアクション」が伴うことにより、そして、どのようにして「生産的」たりうるのでしょうか。「生産的」とは、どのようなことでしょうか。「場合によっては」といわれますが、一体どのような場合
のことをさしているのでしょうか。一体どのような「存在意義」が、どのようにして成立するのでしょうか。これらすべて、主張が成立つするためには必要不可欠な点であるにもかかわらず、まったく説明されていません。つまり、肝心な部分を、ブラックボックスにほうり込んだままで、主張をしているということです。一体どのようにして、なおちゃんさんの主張を理解したらよいのでしょうか。内容も明らかにせず、自分の言うことを理解しようとしない、などとはよくも言えたものです。理解しようとしない、のではなく、理解の仕様がないと言うことが真実なのです。(私の引用が恣意的である、と思われるのであればぜひ彼の投稿を見てください。)これに限ったことではありません。お前の主張は「オリジナリティの欠如した批判的言辞」だ。となおちゃんさんは主張されています。「批判的言辞」、というのはわかりますが「オリジナリティの欠如」、とは一体どのようなことでしょうか。具体的に明らかにして頂かなければこれも理解の仕様がないのではありませんか。批判しかないからオリジナリティがないと言いたいのでしょうか。とすると、批判を書くのにまったくオリジナリティが必要ない、と言うことになってしまうのではないですか。しかも、私の主張は、妄想より生産性に乏しいと言うことのようですが、一体どうしてそのような主張になるのでしょうか。妄想にどのような生産性があるかをまったく明らかにされていないのに、なぜそのような主張ができるのでしょうか。実に不可解、と言うより他ありません。ところで、あなたの主張は私に対する批判的言辞ばかりですね。批判しか行なわない、自分の立場を明らかにしない、私に対してそのような論難をあなたはしていますよね。しかし、あなた自身の投稿は一体どうなるのですか。あなたが批判していることが、そのままあなた自身の投稿に当てはまってしまうではないですか。この点は一体どうしようと言うのでしょうか。
と言うことで、結論を書きますが、あなたの主張は論点において重要な内容や結論をまったく明らかにしない、独断と偏見によって形成されている
私に対する罵倒だとしか理解することができません。以前にマルクス主義者は議論ができない、と書きましたが旧態さながらの左翼思考からパラダイムを転換することができない限りは、このような無意味な罵倒が繰り返されてしまうのではないか、思うと実に空しさを感じてしまいます。