最近読んだ本の感想から宮本顕治について述べてみたい。その本は増山太助著「戦後期左翼人士群像」(柘植書房新社発行)である。
そこには戦後の左翼運動(日本共産党批判発生以前の)を彩った人々100人がとりあげられている。有名、無名もあり、また党に忠実であった人、批判的になりその後党を離れた人と様々ではあるがまずその多彩な顔ぶれには驚かされる。敗戦後の日本共産党には当時の日本の最良の能力が結集していた感がある。あの安部公房が入党を希望していたのも時代といえば時代であろう。この本を読んでいくと軸となるキーパーソンが何人かいることがわかる。それは徳田球一、志田重男、そして宮本顕治である。もちろん生存者は宮本のみである。ここに登場する人々の多くはこの3人の誰かに心酔するパターンが読み取れる。前二者に心酔した人々が党から離れざるを得ない(追われる)、あるいは批判的になるのも当然といえば当然であるがひとつのパターンといえる。そして宮本に心酔した人々は強烈な心酔者のまま生涯を終えたか、逆に強烈な宮本批判者となって党を去る(追われる)のもまた一つのパターンといえるであろう。そういう私もかつて心酔とまではいかないが宮本の「原則性」には強く惹かれていた記憶がある。これこそが「党」であると・・・。だから結果的には宮本に忠実であった人々が現在の「党」を形作っているのも、これまた当然といえば当然なのである。しかし路線論争、党内闘争は避けられなかったにせよ、ここに登場する人々の良心と能力がもう幾ばくかでも活かされる「党」であったなら現在のような「党」にはなっていなかっただろうとを思わざるを得ない。もっと多様で人間的魅力と権威に満ちた「党」であったろうと・・・。宮本の「原則性」を「党」の「原則性」と取り違えたことにすべては起因するように私には思えるのだが。
八回大会以後もこの「宮本の原則性」は多くの人々を切り捨てていったことはいうまでもない。しかし多くの場合は反対勢力との対抗関係のなかでこの「原則性」は発揮されたが、唯一「主体的」に、そして悪意をもって発揮された例が「新日和見主義」事件であろう。川上徹氏、油井喜夫氏の著作でその実態は明らかにされたが残された謎はなぜこのようなでっち上げが行われたかということであろう。私はその真の理由は宮本があの大学紛争を創造的に闘いぬいたあの世代の人々(川上徹、高野孟、宮崎学氏等・・・)の存在にそれまでの党内反対勢力とは違う恐怖感を感じ取ったからではないかと推測する。創造的で行動力、実行力を持ちながら、一方では「党に忠実」(=宮本に忠実)であったこれらの人々が、「党に忠実」であるがゆえに将来反宮本勢力になったとき「宮本の原則性」をもってしても切り捨てられないことを予感したからではないか?
だからこそ先手を打って「切り捨て」にでたのであろう。その実行部隊はやはり「宮本の原則性」を「党の原則性」と取り違えた不破哲三、上田耕一郎、榊利夫、茨木良和、下司順吉、諏訪茂等の党内官僚たちだったのである。戦前から日本の権力側は「日本共産党」にスパイを送りこむことを常套手段としていた。それも末端ではなく中枢部に送りこんで党の方針を捻じ曲げることが最も有効であることを知っていた。戦後もその手法は受け継がれた。戦前、戦後を通じたその手法の代表例はいうまでもなく野坂参三である。規模は小さいが「新日和見主義」事件時の民青の県委員長クラスがスパイだったのもその例である。このスパイの大きな役割のひとつに有能な人材をなんらかの形で葬り去ることがある。その「役割」を自らの保身のために実行した宮本顕治はスパイ以上のスパイ=「超スパイ」であると言わざるを得ないだろう。「無個性」で「民主的論議の出来ない」党員の「群れ」である現在の「党」は権力側にとってみれば最も「無害な党」なのである。