【1】自衛隊容認の可否を踏絵に突きつける不破指導部に否を
昨年来の不破哲三氏による自衛隊容認論は、有効な党内批判を受けることもなく成長し、ついに、第22回党大会決議案に公然たる姿を現すにいたった。自らの指導覇権体制は周到に防衛しつつ、規約前文の削除をふくめ、全面的な「現実」追従路線へと転換をはかるべく、いよいよ転落への道を加速していくのであろうか。
「しんぶん赤旗」が伝えるお手盛り報告によれば、「圧倒的な共感と歓迎の声が寄せられた」とのことであり、中央委員会総会は全員一致で諸決議案等を採択したとの驚嘆すべき成果を挙げたようである。
一体、中央委員諸氏には、自ら鍛え上げた思想と理論と信条とを持ち合わせてはいないのであろうか。これほどの大変動・大変節を眼前にしながら、一人の保留投票者さえ出ない会議に、民主主義を見出すことは、「国民の目線」からは不可能である。自己の良心に照らして考えるよりも、権威者に追従するのが党生活上一番安全な道だと決め込んでいるのであろうか。
さて、今回の諸決議・大会決議案については、本欄でも批判が相次いで発表されることと思われるが、さしあたり、ここでは、自衛隊容認論について、本欄における過去の発表文を敷衍しながら、私論を展開したい。
【2】憲法と自衛隊をめぐる現状認識のあやまり
22回大会決議案第三章(9)は、「憲法を生かした民主日本の建設を」なる表題のもと、羊頭狗肉を地で行くように、違憲の自衛隊容認論を展開している。
まず、憲法をめぐる対決の現状認識からして判断を誤っているだろう。いわく「憲法九条をとりはらおうという動きの真の目的は、アメリカが地球的規模でおこなう介入と干渉の戦争に、日本を全面的に参戦させるために、その障害となるものをとりのぞくところにある。」アメリカ帝国主義といわずに、「アメリカ」という一般名辞を用いるところも情けないが、それはともかくとして、日本の独占資本・多国籍企業が志向する戦略に一切触れていないことがこの節における現状認識の特徴である。これを伏線として、「米軍基地国家からの脱却」(第三章(6))の課題と、九条規範実現の課題=自衛隊軍拡反対・改組解消の課題とが図式的に切り離され、「安保廃棄についての国民的合意が達成されることと、自衛隊解消の国民的合意とはおのずから別個の問題である。」との形式的段階論が導かれる。ガイドライン法による自衛隊海外派兵の志向が、アメリカ帝国主義の戦略の下で、なお、独自な権益の追究をおこたらない日本独占資本=多国籍企業自身の主体的な志向でもあることを見落としてはなるまい。この点の把握については、今や本HPでも話題の主である渡辺治氏の、最新作を除くところの論著を参照のこと。
このような非科学的な現状認識から、当面する政治的対決点を、自衛隊を「自由勝手に海外派兵ができる体制をつくることを許していいのか。これが憲法九条をめぐるたたかいの今日の熱い中心点である。」とさせ、「この点で、九条改憲に反対することは、自衛隊違憲論にたつ人々も、合憲論にたつ人々も、共同しうることである。」との評価を導いていることに注意しなければならない。そして、九条の「平和原則にそむくくわだてを許さないという一点での、広大な国民的共同をきずくことを、心からよびかける。」と行動提起をおこなうのである。
なるほど、戦線の広いことにこしたことはない。しかし、敵の志向と世論誘導は、アメリカのための自衛隊海外派兵動員という構えだけではなく、「邦人救出」「人道的国際貢献」という「正義」の要請をも用意していることを軽く見てはなるまい。危機意識の扇動や軍事力有効論の跋扈が見込まれる今日、これらの「正義」のスローガンが一気に世論を自衛隊海外派兵容認へ導く危険を十分に見据える必要があろう。こうした敵の誘導をきびしくしりぞけるに足る強固な平和構想が求められるのである。
その視点から見ても、(9)節がかかげる自衛隊容認政策は、極めて危険で有害な役割を演じることになるであろう。
【3】国家の「自衛権」と武力不保持の原則
憲法九条は、国家の自衛権まで放棄したものではないとする見解は、それ自体としては、今日の学説の多数説である。しかし、学説の多数は、「自衛権」の存在は認めるが、憲法九条の規定からは、武力(政府のいう「自衛力」も含む)によるその行使は許されないとする、いわゆる「武力なき自衛権」論をとっている。
かつて、第12回党大会においても、決議文書中の「「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」について」で、(急迫不正の侵略をとりのぞくために)「国民の自発的抵抗はもちろん、政府が国民を結集し、あるいは警察力を動員するなどして、この侵略をうちやぶることも、自衛権の発動として当然であり、それは、憲法第九条が放棄した戦争や武力行使でもなく、同条で否認した交戦権の行使や戦力保持ともまったくことなるものです。…可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然のことであります。」として、「武力なき自衛権」に近い立場を打ち出していたのである。
このような多数説=「武力なき自衛権」それ自体にも、以下に述べるような問題点が存在する。しかしながら、少なくとも、その論理においてさえ、当然のことながら、九条は一切の武力の保持を禁止していると断言するのであって、今回の決議案がいうところの「常備軍によらず」といった巧妙狡猾な軍事力容認を導く憲法解釈とは全く無縁である。
「常備軍によらず」とは、「臨時編成軍」を認めると同義であって、もしそのように、「異常な事態」に対応する場合には憲法の規範を例外的に免れるとするならば、戦力不保持の原則は無いに等しいものとなる。一体、不破指導部は、憲法というものをどう理解しているのであろうか。憲法の規範が、特別な場合には踏み越え可能だとするならば、<憲法の規定によって権力の放恣を制限し、国民の人権を守ろうとする立憲主義>の立場とは全く相容れないこととなる。国会議員たる不破氏は、その点で、憲法尊重擁護義務を定めた憲法99条の蹂躙を公言していることになる。
【4】憲法九条と「自衛権」
ここで、決議案が当然のように論及している「自衛権」について考察しておこう。
「自衛権」が一般に受け入れやすい理由として、次の二点をあげることができよう。第一に、国家の自衛権を個人の正当防衛権になぞらえる論法であり、第二に、国家は国民の生命・自由その他の権利を守るべき義務があるのだから自衛権は当然の要請だとする論法である。
第一の点は、個人と国家の違いを無視した安易な類推でしかないのであって、個人の正当防衛権と異なり、国家の自衛権なるものが全く自明のものとして与えられているわけではない。そうした「自衛権」にしろ、第二の論点が掲げる「国民を守る国家の義務」にしろ、「国家に固有のもの」を想定することは、憲法の規定をこえた「権力」を国家に付与してしまうことになるのであって、個人の人権を守るために憲法によって国家権力をしばるという立憲主義の原則に反するものであることを肝に銘じておくべきであろう。
「自衛権」については、筆者が貧弱な記述を試みるよりも、ここでは、今日の憲法学の到達点を参照するのが妥当であろう。以下、浦部法穂著『新版 憲法学教室Ⅱ』から梗概を記すことにする。「 」内は同書からの引用である。もちろん、この発言欄での引用は、筆者が勝手に行なうことであって、著者の責任外のことがらであることは断わるまでもない。
「自衛権」とは元来国際法上の概念であって、伝統的に主権国家に固有の権利とされ、外国からの急迫不正の侵害に対して自国を防衛するために武力にうったえることのできる権利として理解されてきたものである。すなわち、「自衛権」は、伝統的な法的概念としては、「武力」行使を前提としたものであった。
さらに、国際法上「自衛権」が特に問題とされるようになったのは、国際的な「戦争違法化」論のなかにおいてであり、第一次世界大戦後、戦争禁止の国際世論が高まったなかで、「自衛のため」の戦争や武力行使は禁止されていないのだという形で、戦争禁止の留保・免責を得るために「自衛権」というものが主張されるようになったのである。
したがって、少なくとも法的な概念としては「自衛権」は武力行使を前提としたものとしてとらえるべきであり、前述の多数説にいう「武力なき自衛権」というのは、そもそも概念矛盾であって、成り立ちえないものということができる。
ゆえに、「いっさいの戦争や武力行使を放棄し、いっさいの戦力の保持を禁じた日本国憲法のもとでは、このような『自衛権』が認められないことは、当然である。したがって、日本国憲法は『自衛権』も放棄したと解するのが正しいということになる。」
自衛権があるかないかの議論は、そこから一定の武力行使や武力保持を肯定するという結論を引き出すためにのみ、意味をもつにすぎない。したがって、「自衛権」があるかないかを議論すること自体が、すでに、第九条の原則を反故にして自衛隊の存在を追認させようとする者の土俵に乗せられていることになるのである。
武力行使や武力保持は憲法九条の禁ずるところなのだから、「憲法九条が『自衛権』まで放棄したかどうかは、九条解釈において、そもそも問題になる余地がないことになる。したがって、日本国憲法上『自衛権』があるかないかを論ずることは、無意味」なのである。
「もともと、『自衛権』論議の出発点は、どこかが攻めてきたらどうするか、である。けれども、日本国憲法の平和主義は、そもそもそういう前提を捨てるところから出発しているのである。まさしく、『諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』(前文)のであって、どこかに悪い奴がいて攻めてくるかもしれないという『不信の構造』を前提にしてはいないのである。そういう国際社会の『不信の構造』を、日本が先頭に立って全面的に解消することによって、国民の生命・自由などを守っていこうというのが、日本国憲法の基本的立場である。だから、どこかが攻めてきたら、というようなことは、日本国憲法は全然予定していないのである。そうである以上、そのことを前提とした『自衛権』の有無を論ずることは、憲法の基本的立場に反することである。」
憲法の平和主義は、武力行使を当然とする国家固有の自衛権にかえて、我々の安全と生存の保持のため、自衛権にかわって、平和的生存権を対置しているとみるのが適当である。
【5】「自衛隊の活用は当然」か
自衛隊解散という目標が達成されていない段階で、侵略という事態を迎えた場合、これに対抗する手段として、現に存在する自衛隊を活用するという見解は、一見、図式的には成り立ちうるような姿をしているように見える。ちなみに、志位書記局長の「大会決議案についての討論の結語」によれば、自衛隊活用論は「理論的回答」なのだそうであるが、彼は、「理論的」という語句の意味を弁えていないらしい。ここは「図式的回答」というのが適切であることを老婆心ながら指摘しておこう。
さて、このような図式的回答が何を導くかを、現実の情勢に即して「理論的」に考察することが重要である。
第一に、いったんこの論法が許容されるならば、この許容論は、発言者の主観を離れて、日本共産党の政権参加の有無には関係もなく、侵略に対抗する手段として自衛隊を活用するのは現在も将来も当然だという、自衛隊追認論に結果する。早速、防衛庁長官が歓迎の意を示したのもこの現れである。敵を喜ばすものは、味方の敵に回る裏切りである。
第二に、自衛隊の本務の遂行と日々の活動を合理化することはあっても、その活動の抑制の方向へは影響をおよばさない結果を導くことも明白である。
第三に、「軍事的合理性」の当然の要請を導き入れることになり、「有事法制」の立法化に抵抗する論拠を自ら失うという重大事態を引き起こすことになる。
第四に、自衛隊の「邦人救出」、「人道的軍事介入」、PKFへの参加という形態での自衛隊海外派兵、戦争法発動への歯止めを失うことになる。
また、決議案討論の結語では、大災害に際しての災害救出活動も、自衛隊活用の「必要にせまられた場合」の一つとしているが、本来、その任務は消防力の充実を基本とすべきものであって、たとえ国民の自衛隊評価の多くが災害出動にあるとしても、自衛隊の大幅縮小改組・再教育を伴わない、このような災害時自衛隊依存政策は本末転倒である。敵を破壊し殺害することを任務とする軍隊と、救出のための合理的な装備と訓練を受けた消防活動とを同列に、あるいは自衛隊を上位に置くかのような政策は厳しくしりぞけられなければならない。これを認めるならば、先の石原都知事の「三軍」防災出動も合理化され、増強補充を公認しなければならないことになる。
【6】自衛隊は自衛のために有効か
自衛隊による日本の防衛が可能かという問題については、わが日本共産党の政権アプローチの日程に無関係に、①自衛隊は単独のものではなく、安保条約と戦争法の下にあって、アメリカ帝国主義の軍事体系に組み込まれた従属の軍隊であること、②したがって、安保・自衛隊は、日本の防衛に専念する軍隊ではなく、アメリカと日本の支配者が「国益」と見なす基準によって行動することを方向付けられた軍隊であること、③安保=自衛隊の存在と日々の行動自体がアジア地域における人民の平和と安全への脅威になっていること、④国内的には、基地・演習被害や米軍軍人による暴行被害に端的に示されているように、安保=自衛隊の存在と行動そのものが国民の生活と安全を日常的に脅かしていること、⑤本務の遂行のため、有事体制を常に追求する組織として、民主主義を侵蝕する軍隊であること、⑥自衛隊の主任務の一つは「間接侵略」にそなえた治安部隊であること、さしあたりこの6つをあらかじめ確認しておこう。
また、自衛隊が海外派兵される可能性はあっても、万万一においてさえ、侵略されることを想定することは、はなはだ非現実的である。世界情勢や、我々が果たすべき義務についての理論的考察を棚上げして、いとも安易にかつ図式的に、侵略されたら、現にある自衛隊を活用するのは当然などと言い放つのは、無責任の極みでなくて何であろう。それは、一方で、安保・自衛隊の解消を段階的に目指すと強調してみたところで、何ら合理化することのできない重大な政治的判断誤認である。
百歩ゆずって、安保=自衛隊自体がつくり出しているこのような現実的な緊張と危険を仮に棚上げしたとしても、こまかなシュミレーションをするまでもなく、現代の軍事力水準に基づく攻撃と武力による応戦とがもたらす戦火の拡大は、日本の地理的・社会的・経済的諸条件から考えて、壊滅的な人的・物質的損害を引き起こすことは明らかであろう。
2000年版『防衛白書』のCD―ROMが動画で演じて見せてくれるような現代の戦争にあっては、自衛隊員の死傷者数よりも比較にならない多数の市民に死傷者が出ることは容易に想像できよう。一体、不破指導部は、この点を考えたことがあるのだろうか。「国民に分かりやすい」全く無責任な「政策」である。
加えて、実際に策定されている自衛隊の作戦計画や演習で、国民を守る手だてはほとんど何も予定されていないのである。こうした自衛隊に、国民の生命と財産を守ることを期待することはできない。それどころか、自衛隊がその軍事作戦に邪魔だと判断した場合には、国民を見捨てたり国民を「敵」として攻撃したりすることさえありうるのである。アジア太平洋戦争における「満州」や沖縄での「皇軍」のそうした非行と凶行は、我々の記憶から消えることはないだろう。自衛隊が旧軍の伝統を引き継いで誕生した歴史を忘れてはなるまい。旧聞に属すが、栗栖弘臣自衛隊元統幕議長は、雑誌『現代』1980年1月号所載論文にて、北海道が戦場になった場合を想定し、もし道民の多数が、自衛隊の抵抗がおこなわれるとかえって道民が殺される危険が増すばかりだから抵抗はやめてほしいと希望するなら、その希望を認めざるを得ないが、それ以後北海道は日本の領土ではなくなり、「本州からの米軍や自衛隊の爆撃にさらされることもありうる」と明言したことを忘れるわけにはいかない。
国民の生命と財産の保護を自衛隊に託すとは全くのたわごとである。
【7】我々の対抗戦略をねりあげよう
現実に違憲の自衛隊が存在し、これの解体が長期におよぶ慎重な段階を踏まねばならないことはいうまでもないが、その慎重さの要請ゆえに憲法規範を反故にしてまで違憲の自衛隊を結果的に認知するような政策は、全く無用である。
安保=自衛隊に対抗し、第九条の完全な実現を目指して行動する我々にとって、「必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を、国民の安全のために活用することは当然である。」ことを掲げた「決議案」を踏絵にして迫るような政党は、まさしく九条を踏絵にする暴挙といわねばならない。
自衛隊を使用するのではなく、その出動をおさえること、軍事的対抗を一切封じることこそ国民の人的物的損害を最も少なくできる現実的な方策である。
違憲の自衛隊による違憲の発動行動への容認を迫り憲法蹂躙を教唆する不破指導部に、全力を尽くして論戦論破をいどむことこそ今求められているだろう。