先日、本欄に共産党の「変質」を憤るたきさんの投稿があった。もちろん党員でなくとも今回の共産党の「規約改定」案に様々な見解があっていいだろう。たきさんの場合「歴史認識の欠如」つまり「社会主義の必然性」の否定を憤っておられるようだが、当然そういう意見もあるだろう。今後たきさんが「社会主義の必然性」を主張されるもよし、共産党に抗議されるもよし、入党されて「規約改定」反対派として行動するのもそれは自由だ。気になったのはたきさんの投稿の後半である。同じく本欄に投稿されたTOKIO KID JJ氏の投稿に対する罵倒とも言える「批判」である。曰く、「歴史の切り捨ての最もいい例」、「自らの精神的貧困を党のせいにする」。
現在50代のTOKIO氏は恐らく70年前後に学生で党員として活動されたのであろう。日本の民主的変革を願って勉学をも犠牲にされて「活動」に参加されとのでしょう。勉学を投げ打つことが決して良い事とは思わなかったでしょうがまさに自らが「党の活動」に参加することが「歴史の必然」だと信じたからそうされたのでしょう。
このような方が70年代の「党の前進」を支え現在の党の基盤を作られたのだと思います。それから30年。日本社会と党の現状をかえりみて氏は「改良主義でもいいじゃないですか」という見解に達したのでしょう。青春の日々を苦々しい思いで振り返りながら・・・。
現在20代のたきさんから見れば確かに「お前達の歴史認識がだめだから党が社会主義の旗を降ろしたのだ」と言いたいのだろう。しかし果たしてそうだろうか・・・?私は現在において本当に「歴史の必然性」を考えるならばTOKIO氏のような方の発言にこそ耳をかたむけるべきではないかと思う。「社会主義の必然性」の名の元にすべてを「否定」する思考方法こそ避けられなければならないのではないだろうか。共産党の「変質」を憤るあまりに個人の人生まで切り捨てる論法は発展的な意味を持つとは思われません。
20世紀の「社会主義体験」を踏まえたうえで人類の未来として社会主義を展望することは意義のあることだと考えます。しかし私はたきさんのような発想方法で主張される「社会主義の必然性」に共感することは絶対にないと思います。