「革命戦士」(自称)、重信房子氏が逮捕された。その日はアメリカ大統領選の投開票日があり、某国営放送を始めとするマスメディアはこぞってゴアとブッシュを追いかけていたが、私には臨時ニュースで入った、重信逮捕の顛末ばかりが気になった。持ち場の仕事が手に着かなかった。願わくば、自分で府警なり警視庁に駆けつけて、取材したかったのだ。
最近まで、いわゆる「サツ回り」をしていた。はやりの不祥事もあったが、そこで改めて、権力装置の組織防衛に向けた執念を目の当たりにした。公安事案で取材に追われることはなかったが、警備関係者と愛想笑いを交わしながら付き合う中で、あきれるほどアナクロな「反共イデオロギー」と、無邪気にすぎる「愛国心」とにさらされて、辟易としていた。
「権力の監視」を標榜する商業ジャーナリズムは、分かりやすい権力の失態に対する批判は躊躇しないが、記者クラブ制度に根ざす癒着体質ゆえに、安易に民営警察広報機関へと堕落しうる。ましてや、体制化されたシステム(生産諸関係と上部構造、とでもしておく)や圧倒的世論に対しては、盲目的に追従、支持して憚らない。重信逮捕に対して、大多数の報道機関のトーンは初めから分かりきっていた。だから、歯がゆかったのだ。
初めて投稿させていただく。のっけから、戦後左翼の「分派活動」のさきがけとなった共産同の、それも最左派として悪名高い赤軍派の話題を引いたのは、この投稿欄には不適切であったかもしれない。こんな投書があることで、貴通信がいわれのない誹謗、中傷に晒される恐れがあるならば、削除してもらって良い。だが、逮捕をめぐる一連の報道や議論の中に、日本共産党をめぐる議論との本質的な共通性を禁じ得ず、書くことにした。
私は、おぞましい過去の所業を背負う同派についてなんらの共感や同情を持たないが、あたかもその法的「総括」のすべてを、一度として実行犯足り得なかった重信氏に背負わせんとする公安の策動と、それに一貫して便乗する「ジャーナリズム」の手法には納得できない。そして、重信氏を「ブントのマタハリ」といった言葉でヒロインに仕立てる手法にも納得しない。
つまり前者については、共同体全体にとって「異端」と認定された者に対し、ルールなき画一的な反応を示すという「集団ヒステリー」であるからだ。日本赤軍の惹起した諸々の国際テロについて、重信氏との関係性を直接に裏付けるものは今のところ何一つない。お上から流れてくる「事実」や「判断」に飛びつき、それを競って国民に教化しようとする報道機関。疑う機会もない国民は「まかり間違って」疑おうものなら、異端扱い……。「民主」的とされる、ある党の組織原理の現実を思い出す。
後者についてはすなわち、議論における「没思想」である。重信氏が行動や書簡で示した問いかけは、すこぶる思想的でありながら、それを批判する報道があまりに現象に拘泥した表層的なものに終始した。「カリスマ的女指導者の凋落」とでもタイトルが付く、安物のドラマにすり替わっていた。一見まじめな「一時代の終わり」を説く論評さえ、政治的無感動・無関心の時代の空気に身をゆだねた、問いかけの回避でしかなかった。まるで、右翼政党の腐敗と景気低迷という時代の空気を背にして、初めての「政権」というまばゆいばかり椅子のために、歴史的な思想を背骨にする自らの初志とレゾンデートルを忘れて「民主」連合政府を目指す、どこかの党のようである。ドラマは、真に新時代を画すだけの骨のある筋書きと訴えがあってこそ、名作になる。理論のない、思想のない、主義のない言葉は虚ろだ。このほどの路線転換こそ「一時代の終わり」と評すに値する。
自分は「主義者」には徹しきれない。だが、信じる限りの弁証法的な社会・歴史観に鑑みて、日本共産党を支持したい。だからこそ、より民主的な、風通しのよい存在であって欲しい。文屋として生理的にそう思う。貴通信の健闘を祈ります。