日本共産党の自衛隊政策転換について、年が改まってもなお議論は尽きないようです。けだし、原理的転換ともよべる変容を、わずか2ヶ月の討議(?)期間と、この党の執行部にとってきわめて有利な代議員制度によって構成された党大会によって成し遂げたのですから、疑義と議論の続くのは当然のことではありましょう。
ところで、この主題について、1月に入っての論議を見てみますと、昨年来の論議や当「さざ波通信」編集部の論評とにかみあった議論の少ないことに気がつきます。共産党が提起した「急迫不正の主権侵害」への対応なる図式に、この党に代わってその政策の解説を買って出る親切な論考も登場しています。そうした論考の驥尾に付いて、いくつか気のついたことがらを述べようと思います。
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1月21日付け「前衛」さんによれば、共産党の自衛隊政策には2つの柱があって、しかもその2つの方向を統一したところに眼目があるとのことです。なるほど、この党の立案者の主観的意図に沿えばそのとおりではあるようです。もっとも、その政治的意義の実相は、十分に検討しておかねばならないこと、言うまでもありません。
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この党の自衛隊政策の第1の柱は、「前衛」さんの表現を借りれば、「憲法と自衛隊の『矛盾』を憲法違反の自衛隊の『解消』の方向で実現する」となります。安保廃棄と自衛隊解消とを機械的に切り離した決議の恣意的な問題点の吟味はここではしばらく置くとして、かかげた自衛隊解消政策を額面通り推進していただけるというのなら、ご同慶の至りではあります。
ところで、自衛隊が「憲法違反」であるとの、この党の認識については、少々検討が必要です。「前衛」さんによれば、憲法第9条は、「素直に読めば分かるように、「国権の発動たる戦争」「武力による威嚇」「武力の行使」を放棄し、また、「陸海空軍その他の戦力を保持しない」としております。」との理解を示されています。ところが、大会決議によれば、第9条は「一切の常備軍をもつことを禁止している」との重要な一句が入っていますし、志位報告によればこれをふくめた決議こそが「憲法九条内容についての確固としたわが党の立場を明記して」いるものなのだそうです。とすれば、「前衛」さんを含めた我々の常識的な9条理解と、この党の9条理解とには重大な相違があるとしないわけにはいきません。
浩瀚な憲法学書を繙くまでもなく、9条は一切の軍事力を放棄していると解するのが当然であって、「一切の常備軍をもつことを禁止している」などという珍妙な解釈の余地は全くありません。この珍妙かつ強引な9条解釈が「非」常備軍容認すなわち急迫不正の主権侵害時における軍事力行使正当論を導き、自衛隊活用論正当化へと導く我田引水的解釈であることは明白でしょう。なにしろ、「憲法が立脚している原理を守るために」存在している自衛隊を活用することは「政治の当然の責務である」と胸を張るためには、9条の「原理」についてのこのような珍解釈に立つことがどうしても必要不可欠だからです。
しかしながら、このような恣意的な解釈によって9条を守りなおかつ自衛隊を活用するというこの党の大胆な政策は、9条を守ろうとする普通の市民とその運動にとって、はなはだ迷惑千万であることは明瞭です。
この間、私も、「常備軍禁止」なる学説を展開している憲法学書乃至党御用学者の論考があるのなら是非拝見したいと各方面に質問してきましたが、中央委員会からも含め何の回答も得られていません。もし「前衛」さんが、その方面の情報をお持ちなら是非ご教示願いたいと思います。
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次に、第2の柱である、「国民の安全を守るという責任を明確にする」との有り難い言説についての問題点に移りましょう。
このような大義への責任を引き受けられるというこの党の責任感は、先の国旗・国歌法制化の呼び水となった致命的な政策ミスに誰も責任をとらない「責任感」に照らすとき、ひときわ光彩を放っています。
それはともかくとして、まず確認すべきは、この党がどのような解釈をしようと、日本国憲法が定める非武装平和主義の原理に照らして、軍事力有効論は厳しく排除されねばならず、自衛隊を活用することは憲法の蹂躙なしにはありえないということです。この党は、この難点を、「自衛権」論によって切り抜けようとしているようです。しかし、今日の憲法論の到達点が教えるところに照らせば、日本国憲法はいわゆる自衛権をも否定しているのであって、これにかえて、憲法は、人々の平和的生存権とその保障をこそ提起しているとの認識こそ必要でしょう。
この党が立とうとする自衛隊活用論の立場とは、「自衛権」論を援用しようとも、つまるところ軍事力有効論の立場に立つことを意味します。さらに、日本国憲法の平和主義と相容れないこのような立場を合理化するには、「前衛」さんも語っているように、日本国憲法の平和主義を「理想」として、21世紀のはるかかなたに位置づけ、その実現には「戦争一般が廃棄されるような、人類史上の新たな段階が想定されなければならない」という一般的理論によって、軍事有効論=現実論に逃げ込んでいるようです。このような現実論が、安保・自衛隊を積極的に認容推進する現在の支配層の現実論に限りなく近いことはいうまでもありません。戦争・紛争というのは「別の手段をもってする政治」であるといった俗論はこの際無用でしょう。軍人クラウゼビッツの有名な警句は、現代では、「戦争は政治の終わりである」と読み替える必要があります。
この党が改憲阻止の有力な一員だと勝手に自称していただくのは結構ですが(枯れ木も山の賑わい)、こうした軍事有効論の立場から日本国憲法の非武装平和主義をあからさまに踏みにじることは願い下げにしていただきたいものです。
現代の軍事力水準を瞥見するだけで、軍事力の行使は、いかなるものであれ、広範な非戦闘員に深刻な被害をもたらすことは明白です。この党はもちろん、「人民の権力」を自称する何人たりといえども、軍事力行使による被害をやむを得ぬ犠牲だとする資格があろうとは思えません。日本国憲法の非武装平和主義は、軍事力の有効性を説く権力の虚偽を衝いて、諸国民の平和的生存権に基づいて、紛争の平和的解決への努力を市民が担うべきことを指し示しているのではないでしょうか。憲法前文は、「平和を愛する諸国民」の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと明言しています。この党の伝統的に依拠する権力論・国家論からは、「平和を愛する諸国民」などという観点は問題にならないというのが実情であるとすれば、暗澹たる気分に襲われます。
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自衛隊活用論への批判は、憲法論を中心とした以上のような検討以外にも、次のような「現実」から批判しておくことが必要です。すなわち、「急迫不正の主権侵害」<たられば論>に与するのではなく、日本国がいかなる国際的立場にあるのかの吟味です。
征韓論から説き起こすまでもなく、日本国が近代以来アジア諸国に対していかなる役割を果たしてきたかは論じるまでもありません。まず、この歴史的地位を弁える必要があります。そして、今日、日本を母国とする多国籍企業と日本国は、「経済大国」としてアジア諸国民を搾取し抑圧している現実を見つめることが必要です。東南アジア歴訪で面目を施したと錯覚しているどこかの党幹部はいざ知らず、この現実を棚上げにして、「万々一の急迫不正の主権侵害」を想定することなど笑止千万というべきでしょう。その権益確保のために、軍事力展開を視野に入れ、紛争発生時には「邦人救出」「人道的介入」を名として自衛隊の海外派兵を実現できる「普通の国」に変身すべく、改憲論を含めた周到な政策がしかけられていることこそ、焦眉の問題です。この党が、「戦争法の発動をゆるさない」と言いながら、旧態依然とした「アメリカによる戦争巻き込まれ論」にのみ注意を向けている迂闊さもまた指摘する必要があります。
これらの現況において、自衛隊活用論=軍事力有効論の果たす役割を吟味するとき、その有害な役割は明瞭ではないでしょうか。よりまし政権論によって政権参加に強い意欲をもつにいたったこの党の現在の視野には、<安保も自衛隊もそして9条も>という世論の即自的分布への応接こそ重要だと映るのでありましょう。
批判者は少数であり、その主張への支持取り付けには困難が伴い、執拗な努力が必要であるという変革者の心得のイロハが既に放棄されてはいないでしょうか。この党の変質は、日々の変容を通じて日本の現況を見事に映しだし、その現況に埋没している無残な姿を曝しているといえそうです。
求められることは、こうした多国籍企業=帝国主義的路線の転換であり改憲路線の打破です。そのことがアジアの緊張緩和を可能とし、言うところの急迫不正の主権侵害の図式的危惧さえ消滅させる具体的な道筋であるということです。日本国憲法の前文は、この点に関して、次のように示しています。すなわち、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。
古関彰一氏の近著に次のようなことばがあります。「日本人の多くは、これ(憲法9条-引用者注)を理想と見、憲法9条を持つことによって背負わされた重い現実的課題を、むしろ理想とされてきたが故に、忘れてきた。」(小学館文庫・シリーズ日本国憲法・検証・資料と論点第五巻『九条と安全保障』2001年1月)自衛隊活用論に与する人々に是非お読みいただきたい一冊です。