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一般投稿欄

野党連合政権下の自衛隊問題その他

2001/1/16 前衛、40代

 羽派さんから、二つ質問を受けた。一つは、野党連合政権下における自衛隊の扱いについて、大会決議との関係でどう考えるのかという問題。もう一つは、共産党の所謂「50年問題」について、国民との関係でどういう対応をすべきなのか、ということである。
 実は、個人的問題だが、現在、大量の原稿の締め切りを間近にし(マジで焦っているが)、余り丁寧な投稿をしている余裕がないことを、予めお詫びしておきたい。いずれ、機会があれば、もう少し厳密な見解を述べたいとは思っている。

①野党連合政権下における自衛隊の扱いについて
 私の22回大会決議についての理解では、自衛隊の「活用」は、民主連合政府以降の段階、すなわち、自衛隊の「民主的改革」を前提にしたもの、ということであった。これは、既に述べたように、昨年6月の朝日新聞インタビューへの不破談話及び7中総決議案とは異なる設定であった。
 ここから、羽派さんが言われるように野党連合政権下とういう「想定」における自衛隊「活用問題」は、宙に浮いた形となっている。この問題については、いずれ、党から正式な見解が示されると理解をしているが、現時点で分かる範囲で考えておきたい。
 野党連合政権とは、この間の政権問題に関する議論においては、「よりまし政府」に該当し、「暫定政権」「選挙管理内閣」等をその内容とするものである。即ち、一定の国民的な「緊急」「重要」な政策課題での一致を前提として、その他の課題については、「留保」するという性格の政権であり、70年代以降、様々な政権構想が出されてきた経過を持っている。
 具体的な話に入る前に、現在の野党連合政権、よりまし政権論について、その特徴を幾つか確認をしておきたい。
1)情勢全体と関連するが、現在のよりまし政権論は、21世紀の遅くない時期に「民主連合政府」をつくるという、共産党の情勢分析・方針を「前提」にしたものである。つまり、民主的変革「前夜」の構想である点に注意が必要である(実際、そういう情勢かどうかは別に吟味する必要があるのだが)。
2)この政権は、一致点以外は「留保」するという基本的な性格を持っている。「大異を捨てて大同に就く」などといわれてきた問題である。従って、政権を長期間維持することは、元々大きな困難があり、「暫定政権」といわれている所以である。
3)この政権は共産党も「参加」する或いは、「参加しうる」という認識が前提になっていることである。もう少し言うと、政権「参加」であり、政権「奪取」ではない、ということである(民主連合政府の確立は、政権「参加」とは表現できないだろう)。
4)現在いわれている、野党「共闘」の延長線上に「必然的」に想定されるものでは「ない」。共産党の見解では、現時点で野党連合政権の条件はない。国会内での「共闘」レベルの話ではなく、国民的な「合意」が形成されているかどうかの問題である。
5)「政権交代」がありうる情勢の下では、全ての政党が「政権論」を提示する必要に迫られるし、それ自体が選挙における国民の「判断」材料となる。つまり、「政権構想」だけでなく、「政権論」を示す必要があるという点が重要である。
 98年の不破「政権論」(この「さざ波通信」の出発で、議論の対象になっていたが)に関する議論でも、上記の諸点は意外と正確に理解されないままになっていたように思われる。
 1989年の参議院選挙の際、消費税の廃止・企業献金の禁止・米自由化阻止の3点で暫定連合政府樹立の提唱があった。当然のことであるが、この暫定政権の下では、自衛隊はもとより、安保条約も「現状維持」(特に、政権において取り決めが無ければ)である。このときは、共産党の議会における勢力との関係で、政権の「現実味」は余り無かったが(不破氏自身が「政権論」でそう述べている)、こういう一致点での政権の必要性は心有る国民には強く望まれたと思うのである。
 次に進もう。一致点が安保や自衛隊の問題から「遠い」課題であるほど、日本の「将来」の問題に関わっては「同床異夢」的状況が強まる。つまり、同一の政権に基本路線の異なる政党が並ぶ(「共産党」の参加それ自体を「排除」するのでなければ)ことになる。共産党が「参加」しているのを「いいことに」、その路線の「変更」を迫るというような攻撃も強まるであろう。「もっと、現実政党になれ!」「ついでに、安保・自衛隊も認めろ!」と。
 やっと、羽派さんの「質問」に答えることなった。共産党の暫定政権プランは、現在、どうなっているのか。ガイドライン法=戦争法が成立した後の、99年6月に開催された共産党の4中総で、かなり明確になっている。
 一つは、戦争法の成立による憲法9条蹂躙、改憲策動の危険性が飛躍的に高まったことにより、「憲法擁護の広大な戦線」の構築が提起された。ここでは、「憲法の平和条項の完全実施を要求する広大な戦線」と述べている(22回大会では、憲法擁護の方針は「発展」させられている)。
 第二は、戦争法が「国内法」であることも踏まえて、「戦争法の発動を許さない政府をめざす」と述べていることである。更に具体的に「どんな段階で、どんな形態の政権を問題にするときでも、私たちは、戦争法に対する態度の問題を、政権の性格にかかわる基本問題として位置づけ、重視する必要があります」と実に明確に述べている。
 98年の不破政権論との「整合性」を見ると、「たとえ暫定政権であっても、私たちが関与するこの政権が、安保改悪内閣にならないということを、政権問題でなによりも重視するものです。」と安保「凍結論」について説明した部分の「具体化」と言えるのである。 羽派さんが質問をした「野党連合政権」とは、こういうものになるのであり、この政権下で自衛隊をどう位置づけるのか、という問題になる。
 4中総でも述べられているが、戦争法は、その延長線上に「有事法制」の確立を想定しており、この「粉砕」も戦争法の具体化を許さない闘いとして位置づけられる。
 22回大会決議は、安保廃棄以前の自衛隊問題として、「戦争法の発動や海外派兵の拡大など、九条のこれ以上の蹂躙を許さないことが、熱い焦点である。また世界でも軍縮の流れが当たり前になっている時代に、軍拡に終止符をうって軍縮に転じることも急務となっている。」とのべているが、これは野党連合政権・暫定政権のもとでも同様であろう。
 というわけで、軍事予算の縮減を含めた「軍縮」が共産党の立場になる。もっとも、「急迫不正」の事態は、どの政権下でも「理論的」にはありうるが(私の理解では、現実的な可能性を零と想定することはできない)。「さざ波」でも指摘されてきたように、「有事法制」を欠く軍隊の活用は法治国家の下では「不可能」であるし、在日米軍の存在下における自衛隊の活用などは問題になりえない。
 多くの方が指摘されているように、一番危ないのが米軍及びその指揮権下の自衛隊であろう。大会決議の流れから見ても、「活用」する前提を欠くと理解をしているところである。また、現在の共産党の立場からは、自衛隊を「増強」したり、ガイドライン法の発動、有事法制を具体化するような政権への「参加」は、例え他の課題が一致していてもありえないのである。

②共産党の「50年問題」について
 多分、『70年史』などはお読みと思うので、基本的な問題だけ確認しておこう。マスコミなどが50年問題を共産党の「分裂」と認識して、北京機関などを党中央とする議論は例えば、「たしかに、共産党は当時、徳田氏らの『所感派』と宮本氏らの『国際派』に分裂していた。しかし、主流は北京に移った徳田氏らだったのだから、当時北京にあった党中央について、日本共産党の機関ではないというのはおかしい」というようなものだろう。
 共産党自体の認識は概ね以下のようになっていると思う。
1)「50年問題は党史上最大の悲劇であり、最大の誤りである。」(『70年』P212)というように、共産党自身の誤りであると認識をしている。
2)「徳田・野坂分派による党規約無視の臨時中道指導部指名と民主集中制のかなめである党中央委員会の解体は、明確な解党主義であり、50年問題の誤りの本質もここにあった」としている。
 ここから、80年の伊藤律の帰国や、明らかになった中国での幽閉・監禁などについても「解体されていた日本共産党中央委員会として責任のおえない事柄であった」としつつ、北京機関のやり方が「人道上なんの問題もない」ことを意味しない、とのべている。
3)徳田分派による武装闘争闘争路線は、コミンフォルムなどスターリンを中心とした介入と関連してもたらされた。この「極左冒険主義」と解党・分裂を自主的に総括し、党の団結と新しい民主主義革命の綱領を確定した。
 というような「流れ」になるだろう。
 羽派さんが、指摘している国民に対する態度と言う点では、以上の党の公式の認識からも、私は、「国民に対する責任あり」と理解をしている。武装闘争について『70年史』では「党と革命の事業に極めて大きな損害を与えた」とのべているが、現在の共産党の中央に責任はないものの、国民にも損害を与えた(様々な意味で)ことを率直に述べる必要があると考えている。伊藤律の「人道上」以上の問題と認識する。
 なお、武装闘争一般については、情勢によっては否定できない場合があり得るわけであるが、この問題と「中核自衛隊」とか「山村工作隊」などによって、一般国民から見ても「犯罪」と見なされる事件が惹起されているとすれば、これは明確な区別を要する。
 私自身は、この問題は「方針の誤り」一般ではなく、個別具体的に事実関係を究明して、その結果にそくして党としての「見解」を述べるべきだと考えている。
 50年問題の党的な団結は「関与した党幹部を各個人の行動をいちいち規律違反として責任を追及することはせず」「徳田派が『日本共産党』だと信じて、困難な活動に善意で献身的にあたってきた人たち」と大同団結したということであった。
 これ自体は一般論として正しいのであろうが、国民に対する「犯罪行為」は別である。私が気にしているのは、50年代には、米国によるフレームアップ事件など「謎」めいた事件が多い一方で、白鳥事件の関係者が中国に生存していることが確認されていたり(信太謙三『北京特派員』平凡社新書)、日本にも6全協以降に「人民艦隊事件」で中国に「追放」となり、日中和平後に帰国している、「事実を知る」(と思われる)人間もいるのである(川口孝夫『流されて蜀の国へ』自費出版)。
 50年代の歴史のブラックボックスを開き、これを全面的に解明する作業が今後進められるであろう。現在の中央委員会に責任のある問題ではないが、「党史上最大の悲劇であり、最大の誤りである」という立場を国民との関係で明確する作業は、現在でも意識的に果す必要があると認識するものである。
 そして、このような真摯な立場が長期的にみて、「反共攻撃」を最も効果的に撃退する最大の保障と理解する。  私自身、50年問題については、様々な興味も持っているのだが、今回は時間もなく、この辺で勘弁して欲しい。朝鮮戦争が「北」から仕掛けた戦争であるとは、高校時代から歴史に興味を持ってきた自分として、誠に「意外」であり、ショックであったが、ソ連が崩壊し、膿みが出尽くした今日、もう「驚くべき」ことは何もないと腹をくくっている<笑い。