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前衛党の中身をめぐって

2001/1/20 山下

 前衛党の意味は、これまで「指導性」「先見性」「不屈性」が主たる内容でした。今回、「指導性」は誤解を与えるということで削除され、残りの二つが主な内容となったわけです。
 いくつかこれら三つの関係について考えたいと思います。
 第1は、先見性と不屈性です。不屈性は、実践面から捉えたものです。しかし、不屈性だけでは、ドンキホーテとなるので、やはり先見性が前提となって不屈性が発揮されるという関係になるでしょう。しかし、理論面から捉えられた先見性と不屈性だけは、実際問題として、不屈性を具体化することはできないでしょう。従来は、指導性によって具体化されてきたはずでした。
 そこで、第2に、先見性・不屈性と指導性の関係について考えてみます。指導性の内容には、本来、先見性と不屈性が含まれているはずでした。両者がそろってはじめて、指導性が発揮されるわけです。もし、先見性もなく不屈性だけで指導性を発揮すれば、「誤解」を招くことも多いといえます。指導性とは、こうしたある意味で、先見性と不屈性を統一した理念を指した用語であり、この指導性を具体化するものが「指導」だったと思います。指導性が削除されたということは、先見性と不屈性の関連が曖昧なまま「指導」だけが行なわれるようになったということを意味しています。つまり、「指導」そのものが、かなり精神主義的になったといえるでしょう。
 第3に、前衛党の指導性が発揮されたことによって、大衆組織が撹乱された事例は無数にあると思いますが、しかし、指導性それ自体が悪いということにはならないでしょう。要は、中身です。そして、指導性の中身を規定するのが先見性と不屈性の中身です。ですから、指導性を削除するのではなく、先見性と不屈性の中身を再検討したほうが良かったと思います。
 第4に、『さざ波通信』でも指摘されてきた、指導性が削除されながらも「指導」の規定が残っているということがどういう問題をもたらすかということです。当然、大衆組織の内部に共産党員が入りこんでいるわけですが、結局、現場の共産党員からみれば、都合のいいときには、「俺は大衆だ」として、党の指導を無視し、勝手な運動を進めるかと思えば、都合が悪いときは、「俺は共産党員だ」→「俺のいうことを聞け」というように、あるときは大衆になり、あるときには共産党員になり、指導性は誤解を招くかと言えば、今度は「指導」が必要だと言い(こんなことは、今までよくあったわけですが)、今回の改定によって理論的に補強されたことになったわけです。
 あくまでも前衛党は指導性を中核とする、ということを改めて言う必要があると思います。従来は、反共偏見なども含めた「誤解」は「対話」によって克服せよ、指導を受けてきたつもりでしたが。
 指導性を削除しても、「指導」そのものは当然残ります。