きらびやかな言葉が先行し、最近では神戸大震災のセレモニー批判、長野県庁での黙祷中止で物議をかもしている田中康夫長野県知事ですが、田中康夫知事の「きらびやかな言葉」は、特に年末年始の県庁でのあいさつに見られるように、決して「きらびやか」では終わらない、中身の濃い、新しい時代の到来を告げる内容を持っています。その言葉どおりの行政に、今後果たしてなっていくかどうかが問題ですが、少なくとも、これまで出せなかった声がいたるところに出てくるようになっていること、なんらかの形で県政にかかわりたいとは思いながらできなかった人たちに何かやれるのではないかという気持ちを起こさせていることは、現段階での田中康夫知事の、途方もない業績であるといっていいと思います。
田中康夫知事の特徴は何でしょうか? それは、一言で言えば、「箱物ではない」ことだと私は思います。田中康夫知事のベクトルは、「私を支持することをきっかけに県政を変えていこう」ではありません。「私とともにいっしょに考えていこう、やっていこう」です。これが長野県民にアピールし、あれほど短期間の運動だったにもかかわらず当選できた理由です。
翻って、これまでの、日本共産党主導の革新側の運動はどうでしょうか?
日本共産党はもとより、革新統一戦線、革新懇、革新市政の会などなど。これらの特徴を一言で言えば、「箱物である」ことだと私は思います。「革新懇にあなたも参加しましょう」。こうした呼びかけが基本です。「革新懇に加わるかどうか、支持するかどうかは問題ではありません。革新懇とともにいっしょに考え、やっていきましょう」という呼びかけでは全然ありません。
革新懇に入るのかどうか、革新統一戦線に加わるのかどうか、革新市政の会に賛同するのかどうか、そして日本共産党を支持し入るのかどうか。こうしたことが踏み絵として機能しています。革新懇、革新統一戦線、革新市政の会、そして日本共産党に入っている側は、支持せず参加せず、外で遠巻きに見ている人間のことを軽蔑のまなざしで見てきました。これらの組織、団体に入るかどうかを、日本をよくしていこうと思っているかいないか、日
本をよくしていこうとするかしないかの踏み絵にしてきました。こうした踏み絵ムードに対して敬遠の気持ちを持ち、嫌気のさした「日本をよくしていこうと思っている」人たちが、だんだん、無党派層という巨大なかたまりになっていきました。
こういう大きな流れの中で、「自分を支持するかどうかなんて第一ではない」とはっきり言う田中康夫が現れました。何をやるかを提示したことが田中康夫の原点ではありません。「県民が主人公」を言葉の上で言ったことが田中康夫の原点ではありません。県民と同じ地平線に立ったことが田中康夫の原点でした。
日本共産党は、こうした「選択の問題」を逆にとらえています。「なによりもまず日本共産党を支持することが出発点だ」、「日本共産党に加わることが第一だ」と日本共産党は考えています。これは事実として、「日本をよくしていこうと思っている」気持ちは二の次で、こうした気持ちを軽蔑することと同じです。選択がまったく逆になっているのです。まずありきなのが日本共産党を支持すること、排除しないこと、入ること。これはもう、「日本をよくしていこうと思っている」気持ちを踏みにじるも同然の所業であり、日本共産党という組織=箱物を優先する「箱物」思想以外のなにものでもありません。
統一戦線の考え方が、第22回大会決議では後景にしりぞいたという指摘がありますが、日本共産党は統一戦線をどうするのか、混乱した状況にあると思われます。
その根本には、統一戦線の考え方自体が果たして正しいのかどうかという逡巡もあるのではないでしょうか?
ユーゴの「暴力」革命の成功、フィリピンのエストラーダ大統領退陣要求にみられる大衆の「暴力」の成功は、果たして統一戦線先にありきでもたらされたものでしょうか? 私はそうではないと思います。
「まずは統一戦線を作ろう」。このような考え方は非常に抽象的であり、すでに有効性を失っていると私は思います。もし統一戦線戦術が有効であるとすれば、それは「統一戦線を組むべき課題のある場合」にかぎられると思います。したがって、統一戦線戦術を決議に反映させるとするなら、それは、どんな勢力(たとえ日本共産党を敵視する勢力であっても)とも、そのときの課題を遂行するかぎりにおいて、日本共産党も統一戦線に参加すると、そうした姿勢を表明すること以外にないのではないかと思います。
政党など既存の組織、団体が今後大きな広がりを持ちうるとすれば、それは門戸を開くこと以外にないのではないでしょうか。無党派層に「支持」を呼びかけるのではなく、「ともに考え、やっていこう」と呼びかける以外にないのではないでしょうか?
ただ、「日本共産党とともにやっていこう」と呼びかけるといっても、「赤旗を取りましょう」では、これまでと何も変わりがない。「赤旗を取りましょう」の赤旗拡大路線も、再考が必要ではないでしょうか?
何も、日本共産党が田中康夫になる必要はありません。しかし、田中康夫的手法には取り入れるべき点が多いはずです。日本共産党となんらかのつながりを持った人間を、党員拡大の対象として見るという姿勢も、今後は思い切って止めたらどうでしょう?
田中康夫は任期を終えれば知事としてはおしまいです。しかし日本共産党に任期はありません。田中康夫的手法を取り入れた日本共産党はどうなるでしょう。たぶん、これまで以上の強靭な生命力を持つと思います。
インターネットに関して言えば、日本共産党の姿を、党員の掲示板への投稿~議論といった形で、党員の生の姿を示していくことが、広い支持につながっていくと思います。この場合でも、何も党の方針を宣伝するだけがそうだと言うのではありません。ハンドルを使いながらも党員だと名乗りをあげて、あらゆる場所で議論する、中央の方針に文句があるならそれを堂々と言う。日本共産党に対して質問したり批判する議論はストップさせるという
ような「かえる掲示板」の姿勢、あのような姿勢をインターネット上でさらけ出しているようでは「すでに終わって」います。田中康夫知事の応援サイトのBBSには、田中康夫知事批判の議論もたくさん現れていますが、こんなことは田中康夫知事の姿勢に何の影響もありません。そうした批判はあって当然であり、「ともに、いっしょに」という姿勢とは、いささかも矛盾するものではないからです。
日本共産党において何が一番ネックかと言えば、やはり、「日本共産党に対するどんな種類の批判も許さない」という、日本共産党の、蛸壺のような存在の仕方です。新しい規約にあるような「中央と違う考えをインターネット上に発表するな」という、なんとも偏狭で蛸壺な考え方です。これが日本共産党における最大の「桎梏」です。ここを打破しないかぎり、すでに多くの方々が言っておられるように、日本共産党は21世紀の早い段階で消滅す
るかもしれません。