宮顕のXデー=死去も近い現在、過大評価でもない、過小評価でもない等身大の「宮本顕治論」が求められているといえる。徳球死後に宮顕がとった手法=前任者に党の否定的事態の責任を擦り付けて自らを正当化する=を不破、志位一派に踏襲させない為にも、宮顕の生前再評価は焦眉の課題である。
これ迄「天皇制政府でさえ殺人罪を適用できなかったから、宮顕リンチ殺人はありえなかった」とされてきた。しかし「宮顕に殺人罪を適用せず、傷害致死罪を適用した裁判官の判歴等についての研究」は寡聞にして知らない。終戦前の判事とは確かに天皇制支配機構の末端を担う官僚ではあったが、しかし大正デモクラシーの洗礼を受けて陪審制(戦後においてさえ陪審制は復活していない)を担ってきた良心的インテリゲンチアとして存在した層でもあったのである。1930年頃には判事は有力な日本共産党シンパとして存在したのである(松本清張「昭和史発掘ースパイM」による)。宮顕の法廷闘争に加えて、彼等判事の宮顕へのある種のシンパシーが殺人罪の適用を思い留まらせたとはいえまいか。さらに袴田氏らからも指摘されてきたことではあるが、百合子の差入れ等他の非転向収監者では考えられないような厚遇を宮顕は獄中で受けてきたのである。何故こういうことが可能だったか、究明を要する。従来のようなアプリオリに「宮顕は偉大だった」とするのでなく、「宮顕の完全非転向、黙秘を可能にした物質的条件は何だったか」を実証的に究明することが現在求め・・・(文字化け部分)・・・。
最後にこれまでもいわれてきたことではあるが、「宮顕がモスクワ留学しなかったことや戦時下を獄中で暮らしたことと自主独立路線との関係、インドネシア政変と日中両国共産党訣別との関係」等も今一度再検討されるべきであろう。