22回大会における規約改正批判として、「前衛党」規定の削除について多くの人から見解が示されてきた。「さざなみ通信」自体を含め、この板でも多くの人が語ってきた。私自身、HNを「前衛」としてしまったこともあり、1月7日の「苦悩」さんや、1月10日の山下さんの質問などに対応して、マルクスがどういう「文献」で「前衛」という用語を使用したか等について、1月12日の投稿で指摘した。
その際、私はマルクスが「前衛」(Vorkampfer)という用語と「党」(Partei)という用語を結合して「前衛党」という「概念」をもっていたわけではないことを示唆しておいた。同時に、「党」の概念そのものが、現在の「党」と同一ではなく、派閥やセクトなどをも示すものとして当時のドイツでは使用されていた事実も指摘した。
文字化けで、読めない部分ではあったが、『共産党宣言』という「党」を前面に出した著作においても、実は共産党という用語は1回しか出てこないことも、上記の党の概念のあり方を示す事例と理解できると、ついでながら記述しておいた。
その後、何人かの方から投稿があり、不破議長が規約改正の「説明」において、マルクスやエンゲルスが「前衛」という言葉を使用しなかったとしたことについて、「ウソ」であったという批判が、その内容的批判とともに展開されていた。
私はこの批判には大きな錯覚があると認識するので、問題の所在を提示しておきたい。なお、私自身は、「前衛党」という規定を党の文書から「削除」することには賛成である。この規定は、内容的には『共産党宣言』で述べられているように、
「共産主義者は、実践的には、全ての国の労働者諸政党のもっとも断固とした、絶えず推進していく部分であり、理論的には、共産主義者はプロレタリア的運動の諸条件、経過および一般的諸結果に対する見通しを、プロレタリアの他の大衆よりもすぐれて持っている」
とされていることに「尽きる」。
92年に出版された『社会科学総合辞典』の「前衛党」の説明でも、上記文章が引用され、規約前文に「日本の労働者階級の前衛部隊」(20回大会で「前衛部隊」は「前衛政党」と改正されたが…筆者)とあるのは、日本共産党の前衛としての地位を一般国民に求めるというものではなく、労働者階級と人民の苦難を軽減し、根本的には搾取と抑圧からの解放のたたかいを進める前衛党としての自覚と責任を、政党としての性格として書き込んだものである。」とされていた。つまり、科学的社会主義の理論を背景とした自己規定であり、国民を「指導」したり、まして上記概念を押し付けるものなどではない。
まあ、実際には、1960年のモスクワ声明の作成プロセスで、ソ連共産党を「前衛」と規定することに反対して、「指導、被指導の関係ではない」とか「前衛があれば後衛もあることになる」と批判をしておいて、国内でその後40年にわたって「前衛」という用語を使用してきたのだから、国内においては「指導しまくってきた」と理解することも可能であろうが、議論の本筋から離れるので、これ以上述べない。
そういうわけで、日本国民との関係で「前衛党」規定は、何らのプラスにもならないと考えている。何より「オコガマシイ」限りである。削除の理由として挙げられた「誤解」を招く、というものは「誤解」ではなく、「正解」或いは「半解」くらいのものであったが、強いて批判をすると、もっと正々堂々と過去の路線を総括して、今後どう党の運営や大衆団体等との関係が変るのか、或いは変わらないのか、について国民に情報を発信すべきであったと思う。「胡散臭さ」の残るやり方には、国民は敏感である。
さて、不破議長がどういう「つもり」でマルクス・エンゲルスは「前衛」という言葉を使用しなかったと述べたのかは、知る由もないが、恐らく「党」の概念としての使用について述べたつもりであったと思う。
しかし、議論を混乱させ(批判する側についても)たのは、マルクス・エンゲルスが日本語の「前衛」という言葉を使用するハズもないのだから、当然、原語で示すべきであったのだが、日本語の「前衛」という特殊な用語問題に話しが集中してしまったことであろう。
批判する側の錯覚は、仮にマルクス・エンゲルスが日本語で「前衛」と翻訳することが可能な言葉を使用したからといって、今日まで我々が使用してきた「前衛党」という用語と直結するかどうかは、別問題であるという点の自覚が不十分であったことなのである。この点の吟味のない批判は加藤哲郎にひそめば、「学問的に<笑い」意味のない批判ということになろう。
そこで、原語を確認しておくと、『資本論』の表紙や『フランスの内乱』での記述は、ドイツ語のVorkampferであった。Kampferは戦闘を示すから、かなり軍事用語的な色彩は強いが、日常の用法として、日本語でいうと先駆者、英語のpioneerなどの意味もある。かなり一般的な用語であり、指導者などをも表現することがある。
エンゲルスの編んだ英語版『資本論』を見ると、Vorkampferに該当する言葉はProtagonistである。こういう用法では労働者階級の「指導者」などという翻訳になろう。これは戦闘に関する用語ではない。
コミンテルンなどの英語による文書を見ると、日本共産党の現綱領の英訳としての前衛党、即ち、Vanguradという前線部隊をしめす軍事用語的なものを使用している。そこで、私は、直感的に1921年のコミンテルン加入条件の21か条などに見られる、軍事的な民主主義的「中央集権制」による共産党組織を形容する言葉として使用され始めたのではないかと思い、「加入条件」を検索したのだが、残念ながら日本語の「前衛」にあたる言葉は使用されていなかった。
というわけで、前回の投稿では、いつ日本語の「前衛」に当たる言葉が使用され始めたかは分からないとし、どなたかにご教示いただきたいとのべたのであった。まあ、27テーゼを見ると「前衛」という言葉は、今日まで使用してきたものと同様な概念で使用されている。レーニンが一線を退く時期に生まれた用語使用であると考え、コミンテルンが実質的に世界共産党として「君臨」する時期を想定したのであった(依然として不明)。
こういう用語使用については、「初めて」と「定着」と双方を調べる必要があるわけだが、私は専門ではないし、その「ヒマ」もない。加藤さん辺りが、「執念」を燃やして調べて下さると、「学問的」発展が期待できると思うのだが。
以上を簡単にまとめておくと、マルクス等が使用したVorkampferはParteiとは結合してなかったし(党を示す用語ではなかった)、今日の日本で「前衛党」として使用されている「前衛」概念にも直結するものではなく、一般的なプロレタリアートの指導者というような意味であった。
従って、マルクス等が日本語で「前衛」と翻訳されうる用語を使用していたからといって、今日の「前衛党」規定が正しいかどうか、という議論には全く関係のない問題と理解できるのである。
今日の「前衛党」規定のルーツはコミンテルン辺りにあるという予想をしているのであるが、これは不明であるのでペンディングとするが、加入21か条等に示される、「不純」な分子を除いた、軍事的組織(民主主義的は「中央集権」の修飾語である)をいう当時の規定が、歴史を超えて今日まで適用できうるハズもなく、ルーツから言っても見直しが必要なものと、とりあえず指摘しておきたい。
ついでに述べておくと、マルエン全集にもレーニン全集にも事項索引で「前衛」は出てこない。レーニンにあっても党の組織を左右する重要な概念として提起された記録はないのである(多くの未発表論文の存在が確認されているので、今後は不明であるが)。
以上のような認識が私にはあったものだから、「前衛党」規定の削除問題より、党の性格、即ち、民主集中制の実質的な内容を「集中的」に議論すべきと提起したのであった。
追記
「前衛党」規定の削除は、その後の党の運営に一定の変化をもたらしている。1月20日付けの『しんぶん赤旗』の別刷P2で「直属党会議、荒掘国民運動局長が報告」として会議の模様を伝えている。ここでは党と大衆団体について、新しい提起がされている。
平たく言って、今後は大衆団体の党のフラクションを通じて、この線で党が大衆団体を指導するようなことは「しない」。党と大衆団体の関係は「オモテ」の関係として、緊張感をもった議論を行い、党の役割はその運動に対する議論や政策を示すことによって果すとしてるのである。まあ、大衆団体に存在する党員は「すきにやってくれ」ということだろう。これが「必要に応じて懇談会」を行うということの意味である。
当たり前の関係のようにも見えるが、これを敷衍すると、ある運動分野にかかわる党の政策がその運動を担う大衆団体の党員役員に「なんの相談もなく」突然発表されるということも「あり得る」(こういう言い方はしていないが)ということだろう。
国民的な「多数派」を形成し、党を含む統一戦線を拡大していくためには、当然の路線だろう。但し、このことによって、国労問題で指摘されているような国労内部の党員の問題などが「党外」の問題となってくる(因みに、上村革同批判は、余り正確な議論が展開されておらず、風聞に基づくもものが多い。ネットの議論の弱点を示しているように感じている。いずれ、機会があればもう少し正確な整理をしておきたいとも思う)。
地方の「自治権」拡充も同様の問題をはらむ。自主的に対応して、「間違ったら」謝罪をして、総括をして新しい前進を求める。総選挙などの全国的統一対応が必要な場合を除いて、各地、各運動分野でそこにいる党員が「自分の頭」で考え、大衆団体等の性格に相応しい理論・政策・運動を展開する。これだけのことである。大衆団体の役員としての立場と党員としての立場に「はさまれて」ハムレットの心境となる必要は、全くないのである。ドンドン、おやりになってください♪♪