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いわゆる実践について

2001/1/6 山下

 「さざ波通信」(あるいはその投稿者)に対する批判として、「君たちは実践しているのか?」というものがあります。こうした批判に対しては、「私は実践している」と反論してもあまり建設的な議論は望めないように思われます。
 こうした発想は、典型的な共産党員に共通した傾向だといえます。こうした発想がどのような問題意識から生れてくるのかを考えてみたいと思います。
 まず、党員であれば、次の引用は死ぬ程聞かされたでしょう。

 「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることである。」(『ドイツ・イデオロギー』〈フォイエルバッハにかんするテーゼ〉、11)

 こうした引用を行いながら、多くの党員たちは、この引用個所の次のように解釈します。「解釈しただけ」というところからは、難しい本ばかり読むだけでは、単なる「哲学者」=学者でしかない。勉強ばかりしていては駄目だ、といいます。そして後半部分では、「世界を変える」こと、実践することが必要であると説きます。で、「解釈」それ自体は否定されていないので、解釈が実践に結びついたとき、真の学問だとされます。しかしながら、彼らの言う実践とは、党勢拡大などに歪曲されていますので、「解釈」がそうした運動に結びついたとき、大衆が理論をものにして、戦う武器になるというわけです。さんざん、聞かされたと思います。
 入党したとき、古典を実践的に読まなければ駄目だと、しつこく言われました。すなわち、古典のなかで、実践に結びつきそうな箇所を探し出し、現実に生かすというわけです。こうして、同じ箇所をしつこくしつこく引用し、科学的社会主義の創始者であるマルクス・エンゲルもこういっている、という権威を傘にしながら、『ドイツ・イデオロギー』を読んだこともない末端党員を”実践”に駆り立てていくわけです。
 この場合、実践の意味には二つあります。ひとつは、多くの党員が、「あなた実践していますか?」という場合、聞いているのは、ビラ配りをやっていますか、という物理的な意味です。いまひとつは、「あなたは実践的ですか?」という意味です。これは、物理的意味だけでなく、精神構造も含めて聞いているわけです。「世界をかえる」だけでなく、解釈が実践的かどうかを聞いているわけです。そういった意味で、「さざ波通信」の投稿者は、たとえどれほどビラを配ろうとも、「実践的ではない」とされます。
 「私は実践している」という反論は、彼らには何の意味ももたないわけです。
 ちなみに、この引用箇所の「世界をかえる」という意味は、単なる政治的実践よりも広い「主体ー客体」の関係を論じています。前後の脈絡もなく(この場合、後はありませんが)、都合の言いように古典を引用し、あるときはマルクスは、レーニンはこういったと権威付け、あるときはやっぱり言ってなかったと方針転換の根拠にするのはやめてもらいたいと思います。