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一般投稿欄

自衛隊活用論批判の死角

2001/1/7 前衛、40代、団体役員

(はじめに)「さざ波通信」は、党員の投稿欄と一般の投稿欄をわけているが、このサイトが「現役の党員」によって運営されていることについて、確かめようもないのと同様に、投稿者についても「党員」か「非党員」かどうか、確かめようもない。従って、両者を区別する意味は全くなく、余計な「疑心暗鬼」を惹起するので、私としては身分を明らかにせず、「一般」に投稿する。なお、「さざ波通信」に投稿してはならないという党の正式決定はないので(私個人としては、「利用される」心配もないと判断する)、投稿自体は党員であったとしても当然個人の「自由な判断」に依存する。ついでに言えば、私自身は、これまでの「さざ波」の編集部の見解を見て、ある学者に近い人間を含む「現役の党員」であろう、という感触は持っているが(以上、前書き)。

 このサイトで、共産党第22回大会決議における「自衛隊活用論」について、多くの批判が出ていたが(私自身、多くの批判者と認識を共有する部分が多いのだが)、正確な認識が欠如している批判や、盲点などもあるので、これらを指摘しつつ、「さざ波編集部」の見解もお聞きしたい。
 21回大会7中総では、「自衛隊活用論」は次のようになっていた。「憲法九条の完全実施への接近の過程では、自衛隊が憲法違反の存在であるという認識には変わりないが、これが一定期間存在することはさけられないという立場にたつということである。その時期に、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を、国民の安全のために活用することは当然である。」ここでは、「憲法9条の完全実施」へのプロセスとして、日米安保条約の廃棄以前を含めているので、上記引用のうち、「その時期」という文言は、民主連合政権以前の「野党連合政権」等を含む時期を指すことになる。これは、昨年6月の朝日新聞のインタビューへの不破談話と合致している。
 この決議案に対して多くの「批判」が展開され、大会でも(その評価は分かれるだろうが)満場一致ではなく「保留」1名がカウントされるという事態になったことは記憶されてよいだろう。さて、大会での議論を踏まえて(その示唆は実は上田副委員長の大会発言に既に見られるのであったが)、次のように修正された。長文だが重要なので引用しておく。

「これは一定の期間、憲法と自衛隊との矛盾がつづくということだが、この矛盾は、われわれに責任があるのではなく、先行する政権から引き継ぐ、さけがたい矛盾である。憲法と自衛隊との矛盾を引き継ぎながら、それを憲法九条の完全実施の方向で解消することをめざすのが、民主連合政府に参加するわが党の立場である。
 そうした過渡的な時期に、急迫不正の主権侵害、大規模災害など、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する。国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために、可能なあらゆる手段を用いることは、政治の当然の責務である。」

 ここで重要なことは、7中総の決議案とその位置づけがかなり変化している点である。端的に言って、「民主連合政府に参加するわが党の立場」と明示しているように、「活用」の時期が民主連合政権以降に事実上変更されている。これは、新年の志位委員長のインタニュー記事等でも確認することが出来る(「なし崩し変更」等という批判はひとまず保留しておく)。やや曖昧になっているのは、急迫不正の事態とともに「大規模災害など」が含まれているので、この部分は場合によっては「民主連合政権」以前にも適用されるというのかもしれない(両者の区別がない点も意識されてよいだろう)。
 これが「変更」の第1点である。次に、憲法9条の完全実施への第2段階として自衛隊の民主的改革が述べられていた(これは、7中総も同様)。

「自衛隊解消の国民的合意の成熟は、民主的政権のもとでの国民の体験をつうじて、形成されていくというのが、わが党の展望である。この段階では、自衛隊の民主的改革――米軍との従属的な関係の解消、公務員としての政治的中立性の徹底、大幅軍縮などが課題になる」

 つまり、民主連合政府における政策として国民の「体験」を通じて自衛隊の民主的改革の課題の実践を掲げているわけである(自衛隊問題だけに「体験」を差し込むことに対する批判などもあったが、これもここでは無視しておく)。つまり、民主連合政府の下での自衛隊は、対米従属の侵略的な軍隊という位置づけを「変化」させることが「期待」されている(目指されている)のである。これが、現実性を持つかどうかは、その時の政権の基本的姿勢、安定性など様々な要因に規定されるであろうが、共産党の民主連合政府下での政策として提起されていることを確認しておけばよい。
 整理しておくと、民主連合政府の下では「憲法違反」の自衛隊は存在するが、その性格は対米従属の軍隊ではなくなり、少なくとも「国民の安全のために活用する。国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守る」課題に対応できるようなものになっているということであろう。しかし、尚且つ、現行憲法がある以上は、どんなに「国民の安全」に活用できるものであろうとも「違憲」には違いないので、国際情勢なかんずく「アジアの平和的安定の情勢が成熟」する状況をみつつ、自衛隊解消にむけて本格的な措置をとる、としているわけである。
 このような認識を前提として自衛隊解消を目指すということになると、かなりの長期にわたって「違憲」の自衛隊が存在しつづけることになるだろう(現に、アジアでも平和一辺倒という情勢でもないし)。
 第20回大会の決議では、「自衛隊活用」批判論者の多くが指摘していたように「急迫不正の主権侵害に対しては、警察力や自主的自警組織など憲法9条と矛盾しない自衛措置をとることが基本」という位置づけであったが、同時に憲法9条自体についても「憲法9条にしるされたあらゆる戦力の放棄は、綱領が明記しているようにわが党がめざす社会主義・共産主義の理想と合致したものである」としていた。
 つまり、憲法9条を「社会主義・共産主義」の「理想」と合致しているというものである。これを踏まえて、自衛隊解消にいたるプロセスを考えると、上に述べたように「かなりの長期にわたって」「違憲」の自衛隊を解消することが困難なことが理解できるであろう。現在の共産党の「見通し」を敷衍すれば、このような認識になるハズである。
 以上のように、「違憲の自衛隊の活用を認めた」という角度から、今回の政策にアプローチすると、「憲法を改正」しないまま「自衛隊を活用する」ことは「違憲」であるから政策・方針として「論外」であるということになろう。しかし、この場合、国民の安全をどう守るのか、という当然の疑問に対し「侵略されることはありえない」(この「ありえない」という言い方のニュアンスは志位委員長の様々な談話等で、微妙にことなっているが、可能性を全面否定はしていない。また、そうはできないものであろう)ということを一面的に強調し、「ありえない」のだから「早期に解消」すべきであるという政策的な方向にならざるを得ないであろう。
 「自衛隊活用論」を今回の大会では、「継続討議」にすべきと主張した東京の代議員の発言も「ありえない」論からの提起であった。
 では、本当にありえないのであろうか。まあ、率直に言って、朝鮮半島などでの歴史的な対話などの動向を見ると可能性としては「相当低い」と言ってよいだろう。しかし、「ありえない」という本質的な規定は(党の正確な規定は、微妙であるが)無理があろう。(これは、日本資本主義の内在的な問題と海外諸国の問題の両方から論ずる必要があるのだが。つまり、日本が一方的に侵略される、主権を侵されるという問題の設定は一面的である)今後の政治の発展、帝国主義とそれと対抗する勢力の力関係など様々なファクターを考慮しなければならないからである。
 さて、党の今回の方針を「違憲の自衛隊の活用論」として批判してこれに対するオルタナティブを模索すると、こういった「現実的な政治状況」との関係で、「非現実的」と右派勢力から批判されるような論理立てになる可能性が高い(バリエーションは色々とあろうが)。
 そこで、共産党の憲法論・自衛隊論の基本に戻って、今回の政策・理論の特徴を浮き彫りにしてみよう。先ず、党の憲法の綱領的な位置づけは、「平和的・民主的諸条項の完全実施」であり、自衛隊については「事実上アメリカ軍隊の掌握と式のもとにおかれており、日本独占資本の支配の道具であるとともに、アメリカの世界戦略の一翼をになわされ、海外派兵とその拡大がたくらまれている」ことから「解散を要求する」ということであった。しかし、民主連合政府や民族民主統一戦線政府における「国防」課題については、綱領上は明記をしていない。これまでの、政策では基本的に「中立・自衛」という形で国家の「自衛権」は保有しているとしている。これは、今回の政策においても変更されていないようである。
 つまり、現行憲法下での自衛隊は「違憲」でもあり(「違憲」だけが「解散」要求の理由ではなく、むしろ、その性格が「解散」要求の根拠となっているわけだが)、解散をすべきであるが、民主的政権・民族民主統一戦線政府下においては、「自衛権」を明確化するように「憲法」の改正が指向されていたということである。これは、これまでの多くの論文や政策によって裏付けられる。
 さて、「さざ波通信」は自衛隊の性格からして「国民の安全」のために使用できるようなものではない、という批判を展開していた。これはその通りである。ただし、自衛隊の「民主的な改革」によっても「国民の安全」のために使用できないかどうかについては、詳しく論じられていなったように思う(全部の見解をくまなく検討したわけでないので、申し訳ないが)。従って、ここでの論点は「現在」の自衛隊を「国民の安全」に活用できないかどうか、ということでは「なく」(もちろん、党の政策は先に述べたように「なし崩し」に変化させられているのであるが、最終的な「決議」に従えば)、改革後の自衛隊について論じる必要がある、ということになる。敷衍すれば、自衛隊という「国家機構」を民主連合政権という統一戦線政府(革命の政府以前)下で、その本質を「改革」できるかどうかという問題に帰着する。この問題は、日米安保条約を廃棄した後、或は廃棄を目指す状況下での自衛隊の扱い方と共通する課題である。この手の問題は、不破議長が『レーニンと資本論』で中心的な課題として理論的模索を行なっている分野でもある(というか、こういう「国家機構」の・・・(文字化け)・・・。
 この「できあいの国家機構」をどうするか、これに対する回答を「さざ波通信」は提示する必要があろう。これが、党の政策を真向から批判する「さざ波」の「任務」と言っても良いと思う。私自身は、「自衛隊の民主的改革」はかなりリスクの高い性格を持っていると考えているが、これまでの「形式的」な「解散」⇒「憲法改正」⇒「武装中立」というのも、それ程の説得力はないと考えている。つまり、「民主的改革」はいつ解散・解消させるかは別としても、そのプロセスで必要なことであろう。「改革」と言っただけで「存在を認めている」という批判は当たらないように思うのである。
 これまでの政策は、やや図式的に言うと、自衛隊は「違憲」「反動勢力の軍隊」であるから「解散」し、政府・権力の性格が変わり「憲法」をキチンと変えてから、中立・自衛(つまり武装中立)の方向を提起するという「ノンビリ」とした「未来」の話しであったわけだ。
 次に、「さざ波通信」では、自衛隊解散と安保の廃棄を比べ、安保の廃棄の方が困難な課題であるという認識を示していた。これは、明確な誤謬である。党の政策を正確に見れば(それが出来ていないから、この投稿をしているわけだが)、自衛隊の解消は相当に先の「未来」の話しになるのである。つまり、社会主義・共産主義の「理想」を前提とすらしているような「時代」の話になる。これは、まだ、党はキチンと党員や国民にわかるように説明をしていない。
 もっと端的に言おう。自衛隊の解消は、戦争一般がその根拠を失う時代に可能となるわけである。党は「真の平和綱領」(略称)などにおいて、「核戦争は帝国主義下においても国際的な世論や運動を背景に廃絶」しうるが、「戦争一般」については資本主義の下では廃絶できないと述べていた。これは、真理に近いと思われる。「国際情勢」や「運動の前進」だけをもって「急迫不正の事態」そのものが無くなるとはいえないわけである。安保条約廃棄は、日本の民主主義革命の柱の一つではあるが、戦争自体は資本主義の下では廃絶できないということである。やや教条的な理論で、今後、発展が必要とは思われるし、もっと具体的に論じられる必要があるが、認識の「到達点」としておこう。
 共産党は、戦後の情勢をソ連崩壊以前、「全般的危機論」廃棄以前においては、「4大革命勢力」の前進によって、帝国主義戦争を未然に防止しうる情勢になったとしていた。現在の「平和」については、このような「明確」な理論構築(教条であったわけだが)がなされていない。「Too Big To Fail」といったように、資本の巨大化によって大国同士の戦争はありえないだろう、というようなスーザン・ストレンジなどの「見解」もあるが、結構、いい所をついているかも知れない。「前衛党」の見解が聞きたいものである。
 党の自衛隊解消論の理論的な筋道は、結構、難解であるが、「さざ波通信」の安保と自衛隊解消問題の「難易度」の比較は、以上のような観点からなすべきなのである。
 ここまで言えば、今回の共産党の自衛隊政策というのは、憲法9条のサイドから歩み寄ったように見えながら、実は「武装・中立」の政策の「発展」と見た方が、理論的には分かりやすいのである。つまり、憲法と自衛隊の矛盾をかなり長期に設定しながら、憲法を改正しないで、「武装・中立」を自衛隊の「民主的改革」によって成し遂げようとするものなのである。そして、戦争の根拠が失われる、或は、殆ど可能性すらなくなるという時代において(それが何時になるかは、我々の運動や国際的な動向に大きく依拠するだろう)、すなわち「憲法9条」が現実政治の下で、根拠を見出せるような情勢において、自衛隊・国家の自衛力は不要となる、ということである。
 このような政策が実現可能かどうかは、自衛隊の「民主的改革」がどいう状況で実現できるのか、また、できないのか、ということに依存するであろうが、流れや論点の整理という意味では、以上のようなことを検討すべきであると思う。20回大会以降、武装中立論を正面から展開してこなかったので、私の問題提起は多くの方にとって、盲点だったのではないだろうか。

追伸。
以上は、私の自衛隊解消論に関する論点提示であるが、最近の党の幹部の理論水準には「前衛党」規定の放棄のムベなるかな、という感を強くする。ある意味で、7中総以降の党の政策の「変遷」(もっと、率直に変更点を明確にし、論拠も提示する必要を感じる)は「さざ波通信」等の営為も影響しているように思う。モット、正面から議論を進める必要を感じるところである。