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一般投稿欄

自衛隊の早期解消論について

2001/1/10 前衛、40代

 私が「自衛隊活用論批判の死角」を投稿したら、早速『雑草』さんから反応があった。もう、自衛隊問題は食傷気味かと思い、躊躇ったのであるが、投稿した意味があったと理解をしている。
 しかし、『雑草』さんの論旨は、私が意図したものとかなりすれ違っており、討論の難しさを改めて知る事となった。私自身は『雑草』さんの言われるように、自衛隊をできるだけ早期に解消・解体することが必要であると理解をしている。その意味でも「『前衛』氏は『安保よりも自衛隊をなくすようが大変だ』といったが…」と述べられているのは正確さを欠く。私は「さざ波通信」が自衛隊解消と安保廃棄の困難度を比較していたので、その背景となる認識について解明しようとしたまでである。
 『雑草』さんの優れた点は、自衛隊問題を「違憲」という形式的な側面から主張せず、実態的にその危険性を指摘され、解消・解体の必要性を強調していることである。これは、共産党の綱領の路線と基本的に一致している。
 さて、私が「『さざ波通信』では、自衛隊解散と安保の廃棄を比べ、安保の廃棄の方が困難な課題であるという認識を示していた。これは、明確な誤謬である。」と述べたのは、現在の自衛隊がどういう性格であるかといった問題を捨象して、「常備軍の廃止」という課題と軍事同盟の廃止という課題一般の比較という論点であった。歴史的にも外国軍隊の基地を除去したり、軍事同盟からの離脱(形式、実質)という出来事は存在する。もちろん、そのためにその国が払った犠牲は少なくない。しかし、常備軍を廃止した国は存在しない。ゲリラや民兵と常備軍の違いは相対的なものであろうが、このことを含めても、軍事組織の解体を主体的に行なった国は存在しないのである。
 軍事紛争は、よく知られているように「政治の延長」であり、これまでの科学的社会主義の認識の「到達点」(と思われるもの)では、資本主義の下で戦争一般を廃止すること、軍事力を廃止することは困難であるとういうものだった。この「到達点」を示しつつ、私は、これまでの「平和」(帝国主義戦争を未然に防ぐという点も含め)の理論ではモスクワ声明以来の「3大革命勢力」(後に民族解放を含めて4大革命勢力と言った)の戦後体制下での発展による「抑止力」が基本に据えられていたことを指摘したのであった。これにかわる理論は残念ながら構築されていない(先進資本主義国の世論、大国同士の紛争による凄惨な被害の回避、非同盟諸国の世界的拡大など、様々な議論は存在するが)。紛争や戦争のパターンについても、『雑草』さんなりに整理をされているが、「政治の延長」という視点から捉えると、更に複雑なバリエーションもありえるし、内戦・クーデターをはじめ、政権の統治能力喪失により国家の体をなさなくなるといった事態も存在するのである。
 以上のようなことは、理論的に解明することは困難かもしれないが、現代に生活する人間の多くは、紛争・戦争の全面的な廃絶の困難さを体験的に理解していると思われる。冷戦崩壊後に民族紛争が多発する事態が、ここまで広範に展開されるとは、少なくとも旧ソ連の崩壊以前は、「常識」の範疇では無かったであろう。21世紀になっても、政治・経済の不安定さは、むしろグローバリゼーションの下で拡大でしている。「経済構造」を土台と見る史的唯物論の立場からは、政治と土台とのズレの拡大による「社会変動」は必然的であり、これがどういう様相を呈するかはその時に情勢・力関係に依存する。これまでも、近未来の出来事すら正確に予想できていたとは言いがたい。今後の歴史の流れは戦争から「遠く」なって行くことが期待をされるが、「ありえない」という断定は科学的ではないだろう(まあ、『雑草』さんが言われるように、北朝鮮や中国などとの「体制間」の本格的な戦争や侵略などは、想定しがたいのであるが)。
 私は、自衛隊が「違憲」であるという形式的な側面からだけ議論を進めると、この解消のために「急迫不正の事態」は「ありえない」という論理を主張せざると得なくなり、これでは一面的になり、また、論争上も説得力を欠くことになるということを述べたまでだった。むしろ、『雑草』さんが言われるような自衛隊の「実体論」から、その解消を目指すことが国民的な合意となる必要があると考えている。現時点で、日本の周りに紛争の種が見当たらないということ自体は、世論づくりに有利なことであり、自衛隊の危険性を認識する良い機会を提供している。
 誤解の無いように、急いで付け加えるが、「紛争の種」は日米安保体制や自衛隊自身であり、アメリカに従属的に編入された軍隊の侵略性こそが問題になる。自衛隊の装備一つとってみても、指揮権を事実上アメリカが握る状況のもとで(これが「中核派」などは、「日帝」の独自の軍事力に見えるのだからイデオロギーというのは魔力を持っているのだろう)、対米従属的な性格の軍隊である。同時に、22回大会決議が指摘しているように、憲法「九条の存在が自衛隊の海外派兵の一定の制約になっていることもまた事実である」
 日米安保体制からの離脱をすすめるためにも、自衛隊の海外派兵を阻止するためにも、「当面の日本の民主的改革において、憲法の進歩的条項はもとより、その全条項をもっとも厳格に守るという立場をつらぬく。」という新しい憲法の位置づけが明示された。これは、第20回大会以来の必然的な方向として理解できる。この方向は、これまでの「武装・中立」という政策対応を困難にするのである。「武装・中立」論は、自衛隊「違憲」論と資本主義下における戦争廃止不可能論・国家自衛権(主権)維持論の合成による政策であったが、憲法を「改正」するという「困難」な作業を伴い、ある種の「ご都合主義的」な色彩をもつものであった。
 22回大会決議は、安保廃棄までの間に①基地国家からの脱却②日本外交の4つの転換③日中関係の5原則④北朝鮮との国交正常化交渉⑤東南アジア諸国との安全保障対話などを掲げている。『雑草』さんの言う「したがって『万が一』という問いに答えるとすれば、それは日本が安保条約を破棄した時がやばいということである」という指摘についても、上記の5つの課題の追求がどうなっているのかと大きな関連(「やばさ」の度合い)を持っている。そして、これらの課題を対外的な関係を含めて前進されるためには、対米従属・侵略的な自衛隊の存在は大きな障害となろう。大幅な軍縮や自衛隊の「改革」の課題は安保廃棄の取組みと「平行」して行われる必要があろう。この点は共産党の自衛隊の段階的解消政策では、やや弱かったと考える(軍事予算の半減、という方向も決議案の最終的な段階で補強されたように)。安保廃棄と自衛隊の「民主的改革」を段階的に構想することは非現実的でもあろう。この辺は、「段階的解消論」を是とする場合でも、補強される必要があると考える。
 「さざ波通信」が指摘していたように、「自国の軍隊から国民を守る」というのが、これまでの「革命」「政変」の課題であったことは事実であろう。現在の自衛隊が「国民の安全」の立場から役立つとは到底考えられない。軍事理論から言えば、自衛隊は「傭兵」であり、徴兵制の軍隊よりも「急迫不正」の事態発生?の場合、国民の側に立つ可能性は低い。徴兵制であった戦前の日本軍においても軍隊内部の党活動は殆ど記録されていないし、サボタージュなどの「否定的な」反戦が精一杯であった。「そびゆるマスト」なども数名の党員で数号を記録したにとどまったのであった。
 このような観点からすると、民主連合政権下における自衛隊の民主的改革という政策提起は、もっと真剣に議論される必要があったと考える。私としては、この問題が自衛隊活用論をめぐる議論の中で、正面から議論されなかったことに違和感を持っているのである。「民主的改革」後の自衛隊は、どのようなものか確たるイメージは現時点で湧いてこないのであるが、もし、これが可能であれば(私自身は、日本の民主連合政府レベルでの国民の意識は相当なハイレベルが想定されるので、官僚組織の改革や議会制民主主義の徹底、直接民主主義<地方自治などの充実も含め>による広範なサポートなどが実現できる可能性があり、この一環としての自衛隊の改革・縮小の可能性は肯定的に理解をしている)自衛隊の解消問題は、憲法9条などが全面開花できる情勢「づくり」に従属する課題として設定されることになる。大会決議では、「二十一世紀の日本にとって重要な問題」と100年の幅を持たせた書き方になっている。アジアの平和情勢と戦争一般の廃棄の情勢がどう関連するかは未解明であるが、そういう方向の中で、「憲法と自衛隊」の矛盾が解消できると見ているのが・・・(文字化け部分)・・・。
   平和や国際紛争をめぐる理論的なグランドセオリーが欠如する中で、実践的な模索を行なって行かなければならないのが、幸か不幸か現在の状況であろう。私自身としては、昨今の共産党が強調するような「一歩一歩」の前進という考えは必ずしも肯定できない。年をとって気が短くなったこともあって、もっと「大胆」な改革の提示、ラディカルな問題提起を望むのであるが。せめて階段を上るのではなく、エレベーターが無理ならエスカレータ―程度を望みたいのである(笑い)。