「羽派」さんから、私の「自衛隊活用論の死角」への質問などがありましたが、入れ違いの投稿になってしまっため(これは、投稿をチェックする「さざ波通信」の止むを得ない限界ですので、ご容赦を)、簡単に見解を述べておきたい。
第一に、「民主連合政府」と「民主的政権」の差異について。実は、私は党の決議に使用されている用語について、解説する立場にないのだが(笑い)、承知の上で質問されていると理解し、見解を述べる。「民主的政権」なる用語が一般的に使用されてきたかどうかは点検をしていないが、決議にある「民主的政権」については、その前のセンテンスに「民主連合政府」のことが記述してあるので、少なくとも「民主連合政府」のレベル以降の政権であると理解ができると思う。私自身は、「民主的」という言葉を無概念に使用することには批判的である。民主連合政府については、所謂「革新3目標」の実現をベースとして明確になっているので、問題はないが、「革新・民主の自治体」とか「民主的自治体」などの用語は正確に使用する必要があると思われる。
第二。従って、私の理解では、野党連合政権や限定的な「選挙管理政府(内閣)」などは自衛隊を「活用」する政府とは想定されていないハズ(7中総の決議案や不破委員長(当時)の朝日新聞インタビューでは、そうでは無かったことは明確)だというものです。野党連合政権などで、いい加減なことをされたらそれこそ大変と理解するところである。「民主的」の内容規定がないので、羽派さんのような疑問が湧くのはむしろ当然と思う。 第三。ということで、「自衛隊解消の国民的合意の成熟」は民主連合政府以降という設定であると理解できる。ただし、私の見解では、解消の合意は安保体制からの離脱指向と平行して行う(政治プログラムとして)ことを党の立場として明示する必要があると思うのだが。
最後になるが、「国民の体験」といっても曖昧で、一般的には選挙などで共産党が政策として掲げた内容が支持されるかどうか、ということが基本になると思う。国政の将来を担う政策については、ある意味で全てが「国民の体験」を通じたある種の「確信」に依拠するわけで、なぜ自衛隊問題だけに「国民の体験」が出てくるのかは、私には計り知れないのであるが。
中々将来の政府プログラムを明確に国民に示すことは、難しい面をもっていると思うが、これだけ様々な議論のある問題であるので、下の投稿で述べた憲法問題と平行して、あるべき「防衛」「安全の確保」の政策について、安保体制からの脱却と関連させつつ、更に広範な議論を行うことが望まれる。
さて、次に山下さんの質問であるが、これは私に対するものでもないので、黙っていようと思ったが、HNを軽率にも「前衛」としてしまった「責任上」知りうる限りで、お答えしたい(詳しい方の補充を望む)。
第一。マルクスの時代には、「前衛党」という概念は存在しなかったと見てよい。マルクス自身は、私の知りうる限りでは「前衛」という言葉として、『資本論』を献本したヴィルヘルム・ヴォルフを「プロレタリアートの前衛」と述べている。また、『フランスの内乱』でもパリの労働者をプロレタリアートの国際的な「前衛」と述べている。しかし、この「前衛」(Vorkampfer)--aの上に点が二つつく-‐ウムラウト--という用語は党を表すParteiという言葉と結合はしてない。マルクスの労働者政党への認識は1848年の『共産党宣言』や『共産主義者同盟』に見られる。少し注意すべきことは、当時のドイツ語の用法としてParteiというのは、現在の「政党」を示すだけでなく、派閥やセクトなどをも示す用語であるため、どこまでこの時点で「労働者の政党」を意識していたかについては見解が分かれるようである。1860年代に、既に『共産主義者同盟』が存在しない時期に「大いなる歴史的意味での党」という言葉を使用している。これは、70年代から80年代にかけての田口・不破論争などでも解釈をめぐって議論をされてい・・・(文字化け)・・・回しか出てこない。当時の党という概念の状況を示していると思われる。1870年代以後、バクーニン一派との論争以降は、マルクスは一層明確にプロレタリアートの党の意義を押し出していることは有名なので、確認だけしておけば良いと思う。
あと、日本語の『前衛』については、その起源を知らないが、前衛芸術は英語で言えばavant-garde(フランス語のアバンギャルド)を横引きしているので、これの用法とは異なるのではないだろうか。先に紹介したドイツ語のフォールカンファーは別に「前衛」と訳さなくても「先駆」や英語でいう「パイオニア」に該当する言葉である。
第二に、レーニンである。レーニンに自身も別に「前衛党」という用語で(ロシア語は知りませんので、失礼しますが)プロレタリアートの党の原則や性格を説明はしていない。所謂「民主主義的中央集権制」(民主集中制)の確立のプロセスがレーニンの党理論の真髄である。ロシア最初の「社会主義政党」は1889年の社会民主労働党であるが、これは諸党派の「統一戦線的」組織ではあったが、「中央集権的な規約」の確立にレーニンは努力したようである。また、1906年に当時のボルシェビキとメンシェビキが統一した際は、「批判の自由と行動の統一」という「統一戦線的な対応」をしていることが注目される。現在の「前衛党」に結実するのは、1912年のプラハ協議以降であろう。ここで民主集中制の基本が確立をしている。これは、党を諸潮流の寄せ集めとしてではなく、今でいう科学的社会主義の潮流として「純化」し、「革命的マルクス主義の党」を確立することを打ち出したものである。また、所謂「分派」の禁止は、このサイトでも紹介されていたように記憶するが、1921年の大会であり、この時期には既に第1次世界大戦での、第2イ・・・(文字化け)・・・。
このコミンテルンが「世界共産党」として、各国にソ連の一国社会主義擁護を「強制」する立場に傾斜し、スターリンの「指導」とも関連して、分派の禁止を口実とした粛清・弾圧が強化されていったと見ている。歴史のブラックボックスであり、野坂参三の「密告」・除名問題なども、この歴史的状況を背景していると見る必要があろう。加藤哲郎氏などが、勢力的にこの辺りの歴史を「発掘」しているが、まだ、資料的に見ても限界があるようである。
上で述べたプラハ協議以降の党が「新しい型の党」といわれ、レーニン型の党と呼びならわされてきたものである。一応、ここに「前衛党」の歴史的な発祥があると見てよい。ただし、言葉として「前衛党」がいつどこで使用されたのかは、確認をしていないのでご教示をお願いしたい。
日本共産党が規約から「前衛党」規定をなくしたのは(まだ、綱領に「大衆的前衛党の建設」という言葉が残っているので、雑誌『前衛』の名称変更などは「拙速」なのであるが)、理論的・用語問題としては大した意味はない。その内容は、民主集中制の理解及びその前提にある、「革命的マルクス主義」「科学的社会主義」による労働者階級の党(これは、労働者の世界史的使命との関係で、国民の党でもあるが)の確立の問題である。だから、「前衛」の用語をなくすのだったら「民主集中制」もなくせという議論は、全くナンセンスなものなのである。
私自身としては、以上のような問題について、『現代前衛党論』なる「大著」をものしている不破委員長(当時)もいるので、当然、歴史的にも理論的も徹底的に解明されるものと期待をしていたのだが、肩透かしに終わったことは残念であった。用語の問題としてではなく、真向からコミンテルンのブラックボックスを解明し、同時に、その精神であった民主集中制の今日的あり方や、単一の労働者政党の革命に果す役割を解明して欲しかったのである。「みんなで決めたらみんなでやる」とか、私の所属する組織でもこんなことは常識であるが、実際には、決めてもやる必要などないと私は思っている<笑い。一般的な大衆組織には「民主集中制」などを厳密に適用する基盤はないし、特定政党支持のように決めてはならないことを決めた場合、従う必要もないと理解するからである。こういう組織と共産党はどこがどう異なるのか、この辺が国民の「疑問」であり、関心であると思うのだが、どうであろうか。