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前衛党論の立場について

2001/2/1 前衛

「前衛党」論の立場について>広田さんへ

 さて、忙しくなった。自衛隊政策問題について大塩平七郎さんから、「前衛」問題について広田薫さんからご批判を頂いた。言い訳になるが、迫りつつある研究会の報告書もまだ書き終わっておらず、緻密な回答ができる状態にないのであるが、とりあえず広田さんのご批判にお答えしておきたい。大塩さんのご批判については、実は、私と大塩さんの憲法認識には、大きな差異がないので、研究会終了後に議論を発展させる立場から全面的にお答えしたい。もって、誠実な議論や批判には誠実にお答えするという立場であることをご理解いただきたい。
 広田さんは、まだ20代であるという。自分がまだ生まれているかどうか、ものごごろもつかない時代(多分)の論争などについて、様々な著作に触れて議論されるとは、全く大したものだと、心から感心をする。まだまだ日本も捨てたものではないと本心から思う。
 そういう私は、既に30年以上も共産党の路線や政策と関わり、実践の対象とするとともに、批判的に検討したきた「自分史」を持っている。時代から言って、意識・無意識を問わずスターリン主義の呪縛から、如何にして逃れ、本来の社会主義・共産主義の理念を確立するかに腐心してきたのである。
 さて、広田さんは私の「前衛党」論を三点にまとめている。私の投稿は、山下さんの質問がマルクス等が「前衛」という用語を使用しているかどうかというものであったので、ごく簡単に問題の所在を指摘したにとどめたものである。
 まず、私の投稿がどの点で、これまでの共産党の議論や学問論争上の議論と異なるか(つまりどの点がユニークな議論なのか)ということについてご理解をいただけなかったようで、残念である。
 私の「前衛党」論を簡潔にまとめる(1月12日の投稿に限って)とすれば、以下のようになる。
 ①マルクスは「前衛」という概念で「党」を説明していない。
 ②レーニンも党の位置づけとして「前衛党」という概念を使用して説明をしていない。
 ③文字化け部分があり恐縮であるが、「スターリンの『指導』とも関連して、分派の禁止を口実とした粛清・弾圧が強化されていったと見ている」と明記しているように、現在の「前衛党」規定は、スターリン・コミンテルンに由来するものであろう、という「推理」をしている。
 ④「前衛党」規定の削除に絡んで議論すべきことは、党の実質的な組織原理である民主集中制度について(これはレーニン所縁の議論である)である。
 この太い流れは、投稿の全体をサット読んで頂ければ理解できると思う。①から③まで全て私のオリジナルな議論である。70年代の「田口・不破論争」において、党の問題で議論になったのは、田口氏の主張、即ち、「マルクスが『党』の確立を自覚的に追求するようになったのは1870年代にバクーニン等の無政府主義者と論争をしてからである」という主張を巡ってであった。また、民主集中制については「レーニンは最後まで批判の自由を主張していたのかどうか」を巡ってであった。現在の時点からふり返れば、レーニンの解釈をめぐっての論争が中心であり、「レーニンを疑う」論点が致命的に欠如していると指摘できるであろうが、私自身は、大局的な党の発展方向としては田口氏に、レーニンの解釈については不破氏に「軍パイ」をあげたものである。
 さて、広田さんのご議論は、一見して藤井一行氏の所論に依拠したものであるが(藤井氏の議論については、広田氏が紹介されているものより、『民主集中制と党内民主主義―レーニンの時代の歴史的考察』<1978年>の方がより直截的に問題の所在が述べられている)「『前衛』氏の『前衛党論』がどのような立場のものかといえば、どうやら日本共産党中央やスターリン以来のソ連共産党の公認史観と同一のもののようである。」とのべられているのには、正直言って驚いた。
 まず、ソ連共産党と日本共産党の「公認史観」は同じではないが、これを論ずることは避けておこう(興味もないであろうから)。
 そこで、広田さんが私の議論の要約であるとして取り上げた三点について、事実関係を検討することにしよう。

 ①「ロシア最初の「社会主義政党」は1889年の社会民主労働党であるが、これは諸党派の「統一戦線的」組織ではあった」という点について。(1898年のタイプミスです)
 広田さんは、なぜ私が社会民主労働党の第1回大会を民主集中制の説明の流れで取り上げたのか理解できなかったようであるが、この問題こそ、スターリンとレーニンのソ連共産党(ボ)の出自にかかわる認識の差なのである。広田さんが引用している『ソ同盟共産党史』(国民文庫)をご自分でお読み頂ければお分かりになると思うが、スターリン公認の党史では、ボルシェビキ党創立の時期を1912年のプラハ協議以降とされているハズである(ご確認をいただきたい)。「党史」はいくつもあって70年代つまりスターリン死後時間が経過したものは、1903年の第2回大会を創立時期としている。
 レーニン自身は、1898年の第1回大会をボルシェビキの創立として位置づけている。実態としては、この大会はロシア全土から6つ組織を代表する9人が宣言をまとめ、役員まで選出をしたが、直ぐに政府の弾圧の対象となり、統一的な党を形成することは「出来なかった」のである。
 この辺りの事情については、広田さんもお読みと思うが、『なにからはじめるべきか』『なにをなすべきか』『一歩前進二歩後退』などで、問題が分析されている。別に私が拵えた問題ではなく、一般的に知られている事実であろう(但し、私自身がロシア史の専門でもないし、レーニンが述べていることが歴史的事実かどうかは点検していないことを正直にのべておこう)。
 レーニンは、この時点で既に中央集権的な統一党の必要性を論じているのである。民主集中制の「前段」といっても差し支えない。また、同時に、第2回大会までの所謂「イスクラ時代」において、レーニンはイデオロギー闘争を果敢に行い、日和見主義と闘う「批判の自由」(『何をなすべきか』の重要なテーマですね)を主張したことは、私などが指摘するまでもないことであろう。日和見主義との闘争による「党建設」である。

 ②「1906年に当時のボルシェビキとメンシェビキが統一した際は、「批判の自由と行動の統一」という「統一戦線的な対応」をしている」
 この「批判の自由と行動の統一」は藤井氏によって民主集中の「レーニン的原理」とまで「高められた」ものであるので、ここに「批判」がでるとはチョッと想像もつかなったのであるが…。まあ、これを「民主集中制」と結びつけて議論しなかったことを咎めらたと理解しておく。
 ところで、民主集中制の原型は第2回大会の規約でも存在する。しかし、実際には、少数は多数に従うとか、全党が中央に従うという規定をメンシェビキに無視された。このときは「統一党」という側面に光が当たっていて、メンシェビキの様々な策動に譲歩をする(「党内の平和回復について」などが有名だが)ことになった。この譲歩は集中から民主へなどという流れでないことはその後の歴史展開が示しているところであろう。
 レーニンが「民主集中制」という用語をはじめて使用したのは、1905年以降(現在のレーニン全集では)であり、広田さんが指摘される1906年の統一大会では「党内の民主主義的中央主権主義の原則は今では一般的に承認されている」(「ロシア社会民主労働党統一大会に提出すべき戦術綱領」)と述べている。

 ③プラハ協議会について
 広田さんは、「協議会ではあくまで1つの潮流との絶縁を果たしたものにすぎない。」と述べるが、「解党主義と解党派グループについての決議」で解党派と絶縁しただけではなく、14年のブリュッセル会議(第2インターによる調停的な会議)で「統合」の条件としての14項目を素直に読めば、これは、革命的マルクス主義を受け入れることを正面から提起していることが理解できる。日和見主義適な諸党派との「統合」が可能であるという理解は無理である(というか、統合を拒否する論理として14項目があったのだ)。
 第2インターが最終的な「裏切り」を行なう以前には、日和見主義との絶縁は明示的に述べられず、ロシアの特殊な条件とされていたが、「裏切り」後においては、「日和見主義と絶縁した党」を国際的なスローガンとして掲げていることは良く知られているとおりである。
 念のために述べておくが、私は別に共産党の「公認史観」に与しないが、1906年の「批判の自由と行動の統一」をレーニンの組織論に通底するものと理解し、第4回統一大会の規約をレーニンの組織原則として固定化する議論は藤井氏のオリジナルなものであるが、その後のプラハ協議会などでの統合条件の14項目を、かつてのボ×メの統合問題と同一視することは、第2インターの「裏切り」に対するレーニンの批判を見るまでもなく、不可能なことと理解できる。プラハ協議会の歴史画期性を否定するのは、無理なのである。
 なお、分派について、レーニンはプラハ協議会以降、規約上は禁止されていないが、革命の合目的性からは否定されるべきであるという態度になっている。これは、トロツキーとの論争でのべたことであるが、1912年「以降」の党について、「分派状態」「分派闘争」という言葉で語ることは、「過ぎ去った時期に正しかったこと」の無批判で、愚かで、無意味な繰り返し、と指摘している。(全集第20巻、1914年5月…因みに大戦以前である)
 因みに、藤井氏の所論に依拠して行なわれた田口・不破論争でも、田口氏は、「『日和見主義的潮流と絶縁した革命的マルクス主義の党を建設するという仕事』がロシアでは1912年に行なわれたとする解釈は一般的には妥当である」(田口『前衛』79年9月号)と述べていることもあわせて紹介しておきたい。

 ④蛇足
 なお、分派禁止規定について、1921年は「決議」であり、34年にスターリンのもとで 規約化された、と述べられているのは、事実である。  しかしながら、21年の分派禁止決議の下でも「批判の自由と行動の統一」が貫徹していたとし、スターリンの下で民主集中制が歪められたという主張は無理である。これはレーニンの当時の無数の言説によって証明されるものと理解している。
 現在の共産党における民主集中制を、スターリンにその始原をもつものと批判する姿勢は、旧ソ連崩壊によって、レーニン指導下のコミンテルンの実相についても解明の兆しがある中で、あまりにも守旧的であろう。
 私は、これまでの民主集中制の内実を、レーニンによるコミンテルン加入21か条などの軍事的な中央集権(プラスその修飾語としての民主主義的)制度に、問題の端緒を見るのであり、スターリンはこれを歪めて一面的に展開し、「世界共産党」の指導下で、社会主義ソ連を「擁護」させるために各国共産党にご都合主義的な、戦略・戦術を採用させ、分派やスパイを口実にして軍事的な規律で「処分」をおこなったのであった。
 民主集中制度をスターリンがイキナリゆがめたのであれば、歴史はもっと単純に推移しているだろう。私は、(レーニン指導下を含め)コミンテルンの闇の部分に本格的なメスをいれ、民主主義と集中制度を最低でも「結合」した制度、現行制度から見ると、飛躍的に民主主義的な権利や運営が保障されることが、今後共産党が「国民政党」として「期待」に答えられる道であると思うのである。これを民主集中制度と命名するかどうかも検討に値しよう。
 このような立場から、「前衛党」という軍事用語による党原則の説明、即ち、民主集中制度の「前衛党」的運営は問題が多く、「前衛党」規定削除の下で、民主主義的な権利・義務関係、運営の民主化の内実について議論すべきことを提起したのであった。  この点、幸いにも広田さんに受け入れられたので、まあ、結果オーライということであろう。今後とも、若い広田さんのような青年に、よく勉強をしてもらい、私などの固い頭に新鮮な空気を注入してもらいたいものである。

 追伸
 自衛隊問題は、少し時間を貸してほしい(理由は最初に述べた)。チョッと、投稿の仕方について反省しているところもあるので、かみ合う議論を展開したいと思っている。