前衛さんから思いがけず(いい意味で)つっこまれてますので、いくつか答えておきたいと思います。
「社公合意」と「よりまし」政権論
私の投稿にも問題があったのかもしれませんが、論点がぼやけてきているので簡単におさらいしておきましょう。
私の「段階」論批判の主要点は、それが80年代社会党の政策とまったく同一で、支配イデオロギーへの屈服と「力のバランス論」の立場に立つという問題点をもっているということです。それは実質的「必要」論であるとも言えるでしょう。また、「政権」論では共産党自身も、安保「凍結」の「不破政権論」がある以上、社会党の「段階」論と違うという論拠にはなりえないというものでした(3月12日付投稿)。
それに対する前衛さんは、80年代の社会党を評して「安保問題でも政策がハッキリしていなければ、自衛隊をどうする・こうすると言っても実際の政治過程では、『現状維持』しかない」「肝心の安保問題を党独自問題としても次第に曖昧にしながら、社公合意で自衛隊を容認し」(3月14日)たと繰り返しました。また、80年代の社会党について時間軸を無視した「安保容認」という評価が成り立つなら、「不破政権論」でもって共産党も「安保容認」ではないかという私の指摘(3月15日付投稿)に対しては、前衛さんは、綱領の違いから「共産党が、連合政権構想を『口実』にして安保問題を『独自課題』としても曖昧にすることは極めて困難なことであると思っています」(3月19日)としています。
まずは、これによって、80年代の社会党との「違いは明確」どころか、その「違い」なるものは実は綱領の「違い」を根拠とした単なる推測にすぎないことが明らかになったことを確認しておきます。
そうすると焦点は、この推測にどれだけの根拠があるのかということです。
また前衛さんは、「社公合意」と「よりまし政権」との比較で異なる点を強調し、「社公合意」の犯罪性を列挙されていますが、そんなことは80年代から党員であった私にとっては百も承知のことです。「認識の誤謬としては最大のもの」という指摘はいかにも威勢がいいのですが、ここで問題となっているのは単なる両者の比較ではなく、自衛隊の「段階的解消」論の共通性を否定しうるだけの本質的な違いがあるのかどうかです。私が共通だと言っているのは、どちらも近い将来の政権参加を想定したものであり、その中で安保の棚上げを明言したという本質的共通点についてなのです。
「不破政権論」において、安保の「凍結」をぶちあげた以上、将来共産党の入閣がありえるとして、その政権における安保の「凍結」が前提とされることは限りなく100%に近い割合で確実です。なんと言っても、80年代より力関係の不利な現代において、明確に安保廃棄をうたう政党は国会においては共産党しかないのですから。そして、そのような決定的に不利な力関係のもとにおいて、一方で安保「凍結」の政権に閣僚を送っておきながら、他方で独自政策として安保廃棄を曖昧にせずにいられるのでしょうか? 曖昧にすることが「極めて困難」なのではなく、曖昧にしないことが「極めて困難」なのではないでしょうか? こうしてみると、残念ながら、前衛さんの推測は極めて善意にみちた希望的な・楽観的な予断にすぎないと考えます。
綱領上の問題について
綱領上の問題を意識していますか? と質問されたので答えておきますが、もちろん意識しています。
綱領問題について言えば、社会党自身も「社公合意」後、「新しい社会の創造」(82年)や「日本社会党の新宣言」(86年)によって綱領自体を大幅に変え、政党として言わば「変身」しています。この「変身」によって、それ以前の日帝「自立」論などのマルクス主義的色彩をおびた理論は払拭されています。その後の社会党の変遷は、この新しい路線の帰結として捉えてこそ、その「右転換」の本質や意味がみえてくるはずです。当時の社会党が、社会構造の転換過程にある日本の情勢と国民意識をどのように捉え、どのような展望をもって日本を変えようと考えたのか、そして政権を獲得しようと考えたのか、その基本的分析を抜きにして、「欺瞞」という言葉で片付ける考え方はとうてい同意できるものではありません。それこそ非科学でしょう。
そして、日本共産党も次期大会で綱領を改定することになっています。わが党の場合には、80年代の社会党と違ってどのような方向で路線転換を図ろうとしているのかまだ見えないところがありますし、もしかすると指導部自身が描ききれていないのかもしれません。その意味においてなら、市民運動の党として変身を図った80年代の社会党とは違うと考えうるし、再び「左」への「揺り戻し」がありうると信じたいところですが、不利な力関係を考慮すれば、そのような楽観は許されないと考えます。党指導部に対するより厳しい左からの圧力が必要ではないでしょうか。
いずれにせよ、80年代の社会党とは綱領が違うことは言うまでもありません。しかし、ここで論点となっている自衛隊の「段階的解消」論とその背景としてある「非武装中立」政策において本質的な違いはほとんどないことがまず確認されてしかるべきでしょう。
ところがこの論点に正面から答えず、「社公合意」を持ち出して、安保での立場が違うんだから「違いは明確」などと逃げているのが、第22回党大会での志位報告であり、それを踏襲しているのが前衛さんの主張ではないでしょうか?
政権論と共闘論
以前、タケルさんとのやりとりで実感し、また今回も前衛さんとのやりとりで改めて実感したのが、共闘・政権についての考え方の相違が、党の右傾化に対する見方に違いを生んでいるのではないかということです。
前衛さんも、そして以前のタケルさんも、「暫定政権」をありうると考えていますが、私はありえないと考えています。それは、連立政権の前提として基本政策での一致がなければならないと考えるからです。
では、与党過半数割れの場合にどうするんだ?という疑問が出ることでしょう。その場合には、政権交代に協力するが入閣しない、具体的には首相指名選挙で野党統一候補に投票するが自党から閣僚は出さないという選択肢があります。その内閣は短命に終わるかもしれませんが、それは「暫定政権」で入閣したとしてもまったく同じことです。
私は、以前のタケルさんとのやりとりにおいても、「暫定政権」によって入閣しなければならない必然性を見出すことができませんでした。おそらく、前衛さんも入閣の必然性を示すことは出来ないのではないでしょうか?
「暫定政権」を肯定する見解の背景には、それだけ自民党政権を変える必要性があるんだという焦燥感みたいなものもあると思います。しかし、上述のような方法ではいけない理由にはなりませんし、緊急であればなおさら(国会で多数派を形成さえすれば法案は成立するわけですから)、共闘の追求という形で十分なのではないでしょうか?
この決定的な問題において、私は「さざ波通信」編集部と同じ側に立っていると自覚していますが、もし前衛さんが納得のいく説明をしてくれれば考え直すかもしれません。
革新3目標と自衛隊について
ここへきてようやく、前衛さんの問題意識がハッキリと理解できました。前衛さんが、自衛隊問題についての党のアプローチが、「革新三目標」や綱領との関係で言えば具体化であり政策上の発展として捉えうると考えている根拠がよくわかりました。そして、それだけを取ってみれば、そのような見方がけっして誤りではないとも私は思います。
しかし、ここで私が言いたいのは、現在の左翼にきわめて不利な力関係において、そのような政策的「具体化」や「発展」がいかなる意味を持つのか、党指導部は(そして前衛さんも)理解しているのだろうかということです。現在の改憲勢力は、80年代のそれよりずっと強力であるばかりか、「新しい教科書を考える会」などの歴史修正主義が運動として存在しているという情勢であり、ここでもし改憲されて自衛隊が国軍とでもなろうものなら、そのとき自衛隊の「段階的解消」論に何の意味がありますか? これを表現するのには、ちょうど前衛さんが80年代の社会党の政策をさして表現された「グロテスク」という言葉がぴったりとくるように思います。今必要なことは、これら改憲勢力との闘争であり、とりわけイデオロギー闘争の強化ではないのでしょうか。
S・Tさんの投稿について
前衛さんが気を悪くされるのも理解できます。「さざ波」にはところどころ、こうした「いきすぎ」?がみられ、それで損をしているのではないでしょうか。改善を望みます。
しかしながら、問題と思われる記述をすべて削除しても、論旨にはまったく影響がありませんから、「自分に都合の悪いことや説明不能のことが起きた」からそのような「政治的な決め付け」を行なったのではないと思います。重要な批判だと思うので、なんとか噛みあった議論が継続されることを一読者として切に希望します。